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街道をゆく−檮原街道(脱藩の道)− 高知とまりぎ 檮原の郷士たち 脱藩の風景・津野山騒動 |
街道をゆく−檮原街道(脱藩の道)−
脱藩の風景・津野山騒動
1.脱藩の道
2.津野山騒動
3.四国カルスト
4.司馬遼太郎と檮原
平成15年10月10日UP
(取材日:平成15年9月9日)
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1.脱藩の道
檮原の町中を出て、脱藩の道を進む。山また山で、このような険しい道を龍馬や虎太郎たちは進んだのか、と思う。現在は道路こそ良くなっているが、山間の谷間にのごくわずかな平地に時折民家が見える。宮野々の関所も、このような土地にある。
広野を北に過ぎると、そこが宮野々だった。山峡ながら、河畔にわずかに水田がある。道路は水田よりわずかに高い。その道路わきに石垣をごく低く組みあげた宅地跡があって、大きな自然石に、
「宮野々関門舊址」
という文字が刻まれていた。べつに案内板がたてられてて、
この番所(註・関所)は、寛永六年(1629)設置され、宝暦年間より明治の初期まで片岡氏が世襲の番所役人を勤め、通行者を検問した。
とある。
宅地内に家屋が建っている。セメント瓦ながら、往時の規模を再現したものらしく、これからみると、ずいぶん小ぶりな家である。ただ、番所も役所だから、規模に不相応ながら、玄関がある。
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| 宮野々関所跡 |
「幕末の檮原人には、他の土佐郷士のように、もとは長曾我部の遺臣だったという意識もなかったんです」
と、かつて私にいったのは、檮原町長の中越準一氏だった。
「なにしろ長曾我部氏によってほろぼされたんですから」
ともいう。むろん、江戸期の国主である山内家にも恩顧はない。檮原は、檮原という独立気分のある小天地だったのである。
このため、中央に興ってきている反封建主義的な思想気分に、幕末の檮原人たちはすぐなじんだ。
――関所の番などはしていられない。
という気分が、幕末の檮原人の共通のものになった。
宮野々の関所跡を過ぎてしばらく進むと、「舞台」がある。司馬さんが『檮原街道』で見たのもこの舞台だろうか?
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| 津野山舞台 宮野々関所跡のほど近くにある。 司馬さんが見たのもきっとこの舞台 |
茶堂 東津野村。司馬さんが『街道をゆく』で言及したものとは 違うと思うが、このような感じだ、ということで掲載しました。 |
宮野々から北へめざした。
道路わきに、四万十川渓流がながれている。いよいよ山がふかいが、渓流が多いために山中の小集落が多い。茶堂があちこちにあり、”舞台”というものがある。独立したカヤぶきの建物で、かつて村民たちが手製の歌舞伎をたのしんだ劇場である。もっとも桟敷は露天である。
茶堂は、むかしは津野山八ヵ村の道という道にあったものらしい。いまもいくつか残っている。
屋根は本ぶきの萱ぶきで、ぼってりとあつい。それを五本ばかりの柱がささえていて、戸はなく、吹きさらしである。床は、ひくい。
床のひろさは、目分量でみて、江戸間の六畳ほどである。むろん、タタミは敷かれていない。一隅に神棚のようなものがあって、シメナワが張られ、サカキが供えられている。といって茶堂は、お地蔵さんのような宗教施設ではあるまい。
さらに山間の道を進むと、タックさんは脇道にそれて、下り始める。車をとめて木立の中へ歩いてゆくと、看板が見える。ここも関所跡だ。宮野々の関所を抜けた龍馬たちは、この関所(惣川)も通ったらしい。木立の中に、一本の細い道が通る。看板の近くには礎石もあり、きっと往時はここに建物があったのだろう。関所は、当時は少しは開けた土地だったのかも知れないが、今は木々の中で龍馬たちの足跡を静かに見守っている。
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| 龍馬脱藩関所跡(惣川) 龍馬もこの路を進んだのか? |
関所跡の案内版 |
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たいていの脱藩者が、型のように言いかわしたのは、すでにふれたように 「これからは、俺(おら)・お前(おまん)でゆこう」 ということばだった。藩内にいるときはおなじ郷士でも家格に差別があって、敬語のつかいかたがむずかしい。足軽は郷士よりもずいぶん下である。郷士は足軽をよびすてにする。それらをやめて平等になろうというのである。 脱藩という行為そのものに、平等への希求と、封建制への否定があったことが、この一事でもわかる。これに対し、藩ぐるみで幕末から維新へ通りぬけた薩摩藩などは、平等について相互宣誓の経験をもっていないのである。 |
| 脱藩の道 | |
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| 案内版(拡大) なかなか味のある説明文です | |
吉村虎太郎意外にも、津野から出た偉人に中平善之丞がいる。いや、虎太郎以上に重要な人物かも知れない。
当HPの「伊予吉田の風景」でも武左衛門一揆を取り上げた。藩が御用商人の法華津屋に特定産物の専売を請け負わせ、農民は塗炭の苦しみを味わったが、実は土佐でも同じようなことがあった。それが「津野山騒動」だ。
土佐の御用商人・蔵屋は、山村の産物をことごとく安く買い叩いた。津野山の農民たちは、藩に訴えたが聴き入れられず、藩は逆に高圧的な態度に出た。農民たちは同様し、他藩に逃げるか、幕府に直訴するか、という状況に陥る。
ここに中平善之丞(善之進とも、1709〜57)という者が登場する。檮原村の庄屋職をつとめてきたが、一郷の動揺と藩の無理解を見かね、命をすてるつもりで”一揆”のなかに入り、かれらを指導した。一揆の頭目人になることは、斬首を覚悟せねばならない。同時に頭目人が死ぬことで一揆の言いぶんが通ることもありうる。
「檮原のひとは、いまなお中平善之丞を慕う気持ちがつよいです」
(中略)この難路を幕末の脱藩者たちが越えていったのだが、義人であるということでは、中平善之丞こそ銘記されねばならない。かれは性格はおだやかで、齢も五十にちかく、思慮ぶかくもあった。革命期に躍り出てくる激情家や、片よった思考をする性格のもちぬしではなかったのである。
(中略)
藩のほうも、善之丞をひそかに殺すようなことをせず、蔵屋利左衛門と公式に対決させたのである。土佐人の好む言路洞開ということであろう。
善之丞はいちいち実証をあげつつ、蔵屋利左衛門の暴利と私曲を糾弾した。利左衛門はついに弁解に窮した。これによって死罪になった。
善之丞にも、非がある。法を破って一揆を集合させたことであった。かれも、斬首の刑に処せられた。
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| 中平善之丞像 |
この津野山騒動からわずか30年後に、伊予吉田の武左衛門一揆が勃発する。この年代差と、武左衛門の里・大野村(現・日吉村)と檮原が山一つ隔てただけの距離しかないことを考えると、この二つの一揆は決して無関係ではないように思えてならない。
武左衛門は、土佐の出だという説もあるらしい。もしかしたら、武左衛門の両親は津野山騒動に関係し、武左衛門自信、その場を見知っていた可能性もある。土佐の出でないとしても、ごくわずかな距離しか離れていない津野山での出来事、十分に参考にしていたのではないか。
武左衛門もだが、むしろ安藤継明も事を収めるにあたって、津野山騒動−中平善之丞のこと−を念頭においていたのではないか。自らが体を張って農民を抑える、しかも十分に農民の立場を理解し、その生活を救うように願っていたことは共通している。
中平善之丞という人物は、武左衛門一揆における、安藤継明と武左衛門の二つの性格を兼ね備えていたようにも思う。
3.四国カルスト
さて、『檮原街道』の最後は四国カルストで締めくくられている。
私が訪れた日も、9月初旬の残暑厳しい日だったが、檮原方面ではやや涼しい。さらにここカルスト台地は肌寒ささえ感じるほどの気候だった。このあたりでは酪農も盛んに行われているらしく、所々アイスクリームの看板も見える。
本にも出てくる牛も、時折見る事ができたが、全部黒牛で、どうやら伊予牛だったようだ。
檮原は、どこか童話的な里でもある。
私どもは檮原を辞すべく、午後四時ごろには、北の町境い(すなわち県境)の台地にのぼりきっていた。地芳峠(標高1084メートル)だった。そのあたりは、一面のカルスト高原である。北方は、荒海を見るように山波がかさなっており、かすかながら石鎚山も見ることができた。
そのまま、石灰岩の台上を尾根づたいに東へゆくと、姫鶴平という広闊な高原に出た。
「四国カルストです」
町長さんがいったが、私には愛媛県(伊予国)にいる牛がぜんぶ黒牛で、高知県(土佐国)にいる牛がすべて赤牛であることがおかしかった。
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| 四国カルスト 左の写真の小さな黒い点は黒牛 | |
4.司馬遼太郎と檮原
司馬遼太郎にとって檮原とは、土佐とはどのような意味を持つのだろうか。
「街道をゆく」の中に『南伊予・西土佐の道』という作品がある。『檮原街道』と同じく四国を舞台にし、共に司馬作品にも深く関わる土地でもある(そして司馬さんが愛した土地でもある)。
この二つを読み比べると、その雰囲気と構成に大きな違いがある。
『南伊予・西土佐の道』においては、司馬さんは慣れ親しんだ土地、好きな土地をゆったりと歩き、風景を描写し、その街の人々の姿を描いている。一面、絵画的な描写とも言えるのではないか。その描写は読者をもゆったりとした穏やかな気分に導く。
それに対して『檮原街道』は、檮原という土地への深い憧れが感じられる。
まず、冒頭の高知市内のバー・とまりぎを訪れるが、それも檮原という長年憧れた土地を訪問するにあたっての心構えの「儀式」的な意味合いを持つ。
それでは、その憧れはどこに根ざしているのだろうか?
『檮原街道』の中では「自由」「平等」という単語がこれでもか、というほどに飛び散るような印象さえする。
これに「博愛」を加えればフランス革命の精神になる。司馬さんが『坂の上の雲』で描いた秋山好古も、多少雰囲気は異なるが、このフランス革命精神敵な部分は共通しているように思う。さらに『歳月』で江藤新平を描いたが、その中で司法卿時代、江藤がデモクラティックな政策・判断を下したあたりにも筆を割いている。檮原は、司馬さんの好みを代表する土地だったのかも知れない。
司馬さんは、土佐郷士たちに深い思い入れがあるが、それは彼らがこの「自由」「平等」という面を求めていたという部分があるのではないか。
その土佐の中でも檮原は、古来よりの伝統と文化を保ち、独立の気風が高く、「自由」「平等」という雰囲気をさらに強く持った、「司馬さんにとっての土佐」のエッセンスとなる土地だったのかも知れない。
江戸末期の天保年間(1830〜44)、天保庄屋同盟という秘密同盟にちかいものが密約されていたということを発見したのは、故平尾道雄氏である。その密約の思想は、
「われわれは農民を天朝からあずかっているのだ」
というもので、藩主や山内侍からあずかっているのではない、という気分なのである。この場合、天朝が持ち出されるのは、そういう無権力の存在を至高次元に想定することによって農民の尊厳と不可侵を意味づけようとするためのものだった。
当時、山内侍による農民に対する斬り捨てご免の事件が相次いだ。被害をうけそうな農民が庄屋を頼って逃げこんできた場合、決してひきわたすな、という申しあわせも密約にふくまれている。その理由は、農民は天皇の民だからだ、というのである。天皇という、いわば架空の一点を設けることによって、封建的呪縛が、理論の上では一挙に解き放たれる。後年、土佐の郷士・庄屋層によってひきおこされる”勤皇運動”というものが、この時代においては平等への志向であったことが、歴史的に認めらるのである。
人は、差別すべきものではない。
が、封建制とは、差別による制度だった。
例えば、隆慶一郎(『影武者・徳川家康』『捨て童子・松平忠輝』などの作者)が好んで描く「道々の輩」(傀儡などの芸能の徒、鋳物師などの非定住民)は天皇の民という、その一点において平等であり、それ故封建領主から迫害されたとしている。「天皇という架空の一点」で自由・平等なのであり、このあたりで天保百姓同盟との共通性が見出されるように思う。
尊王攘夷、勤皇思想は、明治維新の原動力となりつつも、一方では自己中心的で観念が先走り、第二次大戦の暴走にもつながったことも否定しがたい。尊王攘夷とは、諸刃の剣のようなものだ。司馬さんは、個人的には概ね長州が好きではなかったように思えるが、このあたりも観念先行型を嫌った面があると思う。維新は、ある時点、恐らく薩長が手を握ったあたりから、「攘夷」は「開国」へと変わった。尊王攘夷のエネルギーを利用しつつ、巧みに「ガス抜き」が成され、現実路線へと転換(ある意味では逆転)されたとも言える。
檮原の郷士たちの「勤皇思想」も、いろいろな見方ができると思うが、司馬さんが檮原を語るとき、「天保庄屋同盟」の考え方を前面に出しているように思う。
さらに、司馬さんは『播磨灘物語』の黒田官兵衛のような、無欲な人物が大好きだ。
前述の記述と重なるが、物欲ではなく「自由」「平等」を欲して飛び立った竜馬や檮原郷士たちも同じ範疇に入るのではないか。下の引用文を見ると、彼らへの強い愛情が感じられる。
まことに、幕末、土佐脱藩の士はよく死んだ。司馬さんは、文化を持った土地が好きだと思う。近江もそうだし、宇和島を愛した理由も、幕末に自力で蒸気船を造ったり、蘭学を奨励したり、そいういう好学心、知的な好奇心を生み出した風土が好きだったのだろう。檮原という土地も、義堂・絶海という名僧を輩出し、僻地ながらも高い分化を持ち続けた。強い愛着を持ったのも、不思議ではない。
かれらは、幕末のほとんどの事件現場で屍をさらした。
その屍の上に明治維新があるのだが、革命の果実が新政権の大官になることとすれば、脱藩者のほとんどがそういう果実をえていない。
得る前に、死んだ。新撰組にとっては、土佐人は斬り得だった。土佐藩は最後のぎりぎりまで佐幕だったからである。土佐の奔走家は藩の保護をうけなかった。当時の国内法としては、藩邸はいわば治外法権で、縛吏が踏みこめなかった。坂本竜馬の場合も、かれが藩邸に起居していれば殺されることはなかった。
「土佐人の屍体は、薩摩のイモ畑のこやしになり、長州のミカン畑のこやしになった」
とよくいわれる。薩長に果実を食べさせた、ということであうる。
『司馬遼太郎を歩く』
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