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街道をゆく−檮原街道(脱藩の道)−
檮原の郷士たち
1.維新の門
2.掛橋和泉邸
3.吉村虎太郎生家跡
平成15年10月10日UP
(取材日:平成15年9月9日)
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1.維新の門
現在の檮原中心街の、最大の見物というと、「維新の門」ではないか。檮原出身の郷士に坂本龍馬が参加した形で、八人の像が群を成している。銅像というと、静止画的な外観が定番だが、ここは劇画的というのか、まことにダイナミックな印象がある。坂本龍馬は、檮原檮原郷士達の協力のもとに脱藩した。
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| 維新の門 左から前田繁馬、那須信吾、吉村虎太郎、中平龍之助、掛橋和泉、沢村惣之丞、坂本龍馬、那須俊平 幕末、檮原という小天地にいたひとびとは、幕府をくつがえすべく脱藩してはるかな地へ行ったのである。 |
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| 掛橋和泉(1835-62) | 澤村惣之丞(1843-68) | 坂本龍馬(1835-67) | 那須俊平(1807-64) |
| 掛橋和泉は檮原の神職で、槍と国学を学んでいた。同志とともに脱藩すべく資金の用意をしていたところ、養母に問いつめられ、うそをつくことができず、先祖の墓地に行って自害した。 *檮原村・那須常吉の二男として生まれ、神職の掛橋家に養子に入る。吉村虎太郎と親交を結ぶ。自害したのは同志に累が及ぶのを恐れたため。 |
*土佐の地下浪人の子に生まれ、坂本龍馬と脱藩の道を共にし、勝海舟の神戸海軍塾、亀山社中と、龍馬と共に歩んだ人物。長崎にて薩摩藩士を誤殺し、土佐との間に軋轢が生じるのを恐れて自決。 |
*高知郷士・坂本八平の二男として生まれる。江戸に剣術修行に出、北辰一刀流を修める。武市瑞山(半平太)と交わり、澤村惣之丞と脱藩。勝海舟に啓発され神戸海軍塾に入り、亀山社中→海援隊を結成。薩長同盟、大政奉還推進に活躍。後、京都伏見屋で暗殺される。 | 檮原の槍術家の那須俊平(1807〜64)は五十余歳という、当時としては御隠居の年齢で脱藩し、長州に身をよせ、蛤御門ノ変で戦死する。 *檮原村に生まれ、同村の那須忠篤の養子となる。土佐随一の槍の達人と称された。養子・信吾の脱藩の後、自らも脱藩する。 |
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| 前田繁馬(1835-63) | 那須信吾(1829-63) | 吉村虎太郎(1837-63) | 中平龍之助(1842-64) |
| 前田繁馬という人も脱藩して吉村らとともに戦い、大和の初瀬で銃弾をあびて死ぬ。二十五歳。 *那須俊平に剣を学び、那須信吾、吉村虎太郎らと親交を結ぶ。虎太郎の挙兵を知り、脱藩。 |
(那須俊平の)養子の那須信吾は、身のたけは六尺にちかく、健脚ぶりは馬以上といわれた。檮原から高知城下まで40キロ以上あり、しかも山路はけわしく、ふつうは途中一泊して二日がかりでくるのだが、那須信吾はつねに一日できた。このひとも脱藩し、吉村とおなじく鷲家口で戦死している。三十六歳。 *佐川村・浜田宅左衛門の第三子として生まれ、檮原郷士・那須俊平の養子となる。藩佐幕派の巨頭・吉田東洋を斬り、そのまま脱藩。吉村虎太郎らと天誅組を挙兵する。 |
和歌がうまかった吉村虎(寅)太郎は長州にゆき、京にゆき、流転しつつ、革命の機が熟さぬまま、天誅組という、革命部隊を組織し、その総裁となって、一時は大和(奈良県)を制圧したが、やがて幕軍に包囲され、吉野の鷲家口で死ぬ。 *芳生村(現在の東津野村)庄屋・吉村太平の長男として生まれる。後、檮原村番人大庄屋として赴任。武市瑞山らと勤皇党を結成。脱藩。 |
中平竜之助は脱藩して長州へゆき、やがて蛤御門ノ変で死ぬ。二十三歳だった。 *檮原村地下浪人中平左平の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、脱藩。 |
檮原は、すでにふれたように伊予との国境にあり、いくつかの関所がある。その関所番は、みな檮原の郷士だったが、かれらの多くはすでに吉村虎太郎らと気脈を通じていて、関所破りをする脱藩者たちを見ても、みぬふりをした。「お町」の郷士だった坂本竜馬も檮原をへて脱藩しているのである。
檮原にはそういう風がある。
坂本龍馬と檮原郷士・脱藩の足跡 年号 脱藩者 出来事 安政6年
1859吉村虎太郎、檮原村大庄屋に 文久元年
1861武市瑞山、土佐勤皇党を結成 文久2年
1862坂本龍馬・澤村惣之丞(3月・韮ヶ峠より)
吉村虎太郎(3月?・九十九峠より)
(いずれも吉田東洋暗殺前)吉田東洋、那須信吾らにより暗殺される(4月)
掛橋和泉、自決(6月)那須信吾(4月?・吉田東洋暗殺後) 文久3年
1863前田繁馬
中平龍之助(10月)吉村虎太郎、天誅組結成
天誅組、大和で兵を挙げるが、八・一八の政変で孤立・壊滅
那須信吾(9月24日)、前田繁馬(9月26日)、吉村虎太郎(9月27日)戦死八・一八の政変後、勤皇党、弾圧される。
武市瑞山、捕われ、後、殺される。党員の多くは脱藩元治元年
1864那須俊平(6月) 禁門の変(7月)
那須俊平、中平龍之助戦死慶応3年
1867坂本龍馬(と中岡慎太郎)、京都で暗殺される(11月) 慶応4年
1868澤村惣之丞、長崎で自決(1月?)
維新の門は8人の像から構成されている。その内訳は、坂本龍馬、それに伴い脱藩した澤村惣之丞。そしていわゆる檮原六志士になる。
坂本龍馬と澤村惣之丞は、文久二年、韮ヶ峠から脱藩する。龍馬たちは檮原では那須親子の家に泊まり、脱藩も那須親子が同行した。那須信吾は韮ヶ峠から引き帰し、俊平は宿間村(現在の五十崎町−内子町の南隣−)まで同行、そこから引き返した。龍馬たちは、宿間から川を下り、河口の長浜町に出て、そこから船便で三田尻(長州)へ出た。
檮原六志士たちのうち、掛橋和泉は脱藩者を援助するために財産を処分し、養母に問い詰められて自害しており、したがって脱藩はしていない。残りの五人が龍馬に続き脱藩している。
この五人の脱藩者のうち、吉村虎太郎は天誅組を組織し、那須信吾、前田繁馬も参加(文久三年)。大和で挙兵するが失敗し、亡くなる。
残りの二人−那須俊平と中平龍之助は、天誅組壊滅の後に脱藩し、長州に身を寄せ、翌年の元治元年、禁門の変で亡くなっている。
この他にも多くの土佐郷士、あるいは地元檮原の志士たちも脱藩しているようだ。
一般に土佐の維新四天王といえば、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、吉村虎太郎を指す。龍馬等と並んで梼原出身の虎太郎が名を連ねているわけだ。したがって、檮原六志士の中では、吉村虎太郎が代表格として見られることが多い。檮原村の大庄屋(=代表者)であるし、天誅組の組織者としての面があるのだろう。
しかしながら、私は那須俊平こそが、檮原の勤皇グループの陰の統率者なのではないかと思う。養子の信吾に与えた影響は大きかったと思うし、前田繁馬や中平龍之助は、那須俊平に剣や槍を習っている。虎太郎や他の志士がせいぜい20〜30代前半であったのに対し、50代。経験も積み、思慮も熟していたのではないか。
50代といえば、当時としては高齢であり、志士として活動するのには歳を取りすぎている。だが、それにもかかわらず那須俊平は最後に脱藩する。養子の信吾や吉村虎太郎、教え子の前田繁馬が天誅組の大和挙兵で亡くなり、自分だけが生きていても・・・という思いがあったのかも知れない。自らも死地を求めたのだろうか。最後の日々、那須俊平はどのような思いで過ごしていたのだろうか。
2.掛橋和泉邸
檮原町役場にほど近い場所、檮原座の先に一際目立つ高い石垣があり、その上に藁葺きの旧家が建っている。雰囲気のある建物だ。上がってみると、そこは旧掛橋和泉邸だった。(この土地は吉村虎太郎も住んだ庄屋屋敷の敷地で、そこに近くにあった掛橋和泉邸を移築したということだった)
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| 掛橋和泉邸 建物は近くの場所から移築されている。この敷地は津野郷の大庄屋屋敷があった場所。 かつて吉村虎太郎も、津野山騒動の中平善之丞もここに住んだ。町役場もかつてはここに建っていた。 |
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掛橋和泉邸から町役場へ下ると、庭先に出ていた人が挨拶をされる。こちらも挨拶をかえすが、今時の日本で通りすがりの人に挨拶する土地というのも貴重ではないか。
吉村虎太郎は、檮原町の東隣、現在の東津野村で生まれた。
四万十川源流の、河原に開けた土地の道路を走っていると、そこに一際目立つ木の看板が・・・。車を止めてみると、ここ(芳生野・奈路地区)が吉村虎太郎の生家らしい。細い路を登っていくと、正面に門が見える。ここが吉村虎太郎生家跡。門は往時のもののようだ。
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| 吉村虎太郎生家跡の案内版 (下の道路沿いにある) 吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ |
虎太郎生家跡・門 |
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| 内側から見た門 | 門の横に立つ碑 |
虎太郎は、ここで生まれ、檮原の庄屋となり、現在の檮原町役場近くの土地に住むことになった。東津野村の中心街近くに進む。このあたりは四万十川源流にあたる。その源流に面した所に、一際小高い丘があり、吉村虎太郎の銅像が建っている。実物よりもやや厳つい雰囲気を漂わせているように思う。この像、どこかで見たような気がした・・・と思ったら、『街道をゆく』の本の中、檮原街道の初めのページの挿絵の銅像のようだ。
*吉村虎太郎生家跡及び、銅像は檮原町ではなく、お隣の東津野村にあります。隣村とはいえ、歩いていける距離ではないので訪問される際は御注意ください。また生家跡と銅像の間もかなりの距離があります。
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| 東津野村・吉村虎太郎銅像 『街道をゆく・檮原街道』の扉絵はこの銅像では? |
四万十川源流 銅像は清流沿いの小高い丘に立つ |
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