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『司馬遼太郎を歩く』
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街道をゆく−檮原街道(脱藩の道)−
高知とまりぎ・檮原の町 檮原の郷士たち 脱藩の風景・津野山騒動



街道をゆく
-檮原街道(脱藩の道)-



++檮原街道(脱藩の道)について++

「街道をゆく」では『檮原街道』(脱藩のみち)という好編がある。
代表作『竜馬がゆく』でもわかるように、司馬さんは土佐や、郷士たちに対して一際思い入れがある。
その中でも、竜馬の脱藩に関わり、また自らも維新の動乱に関わった郷士たちを生み出した檮原という土地には一際憧憬の念が強いように思う。

このコンテンツにおいては、司馬さんの檮原街道の跡を辿った。
まず、平成14年10月に毎日新聞の重里記者と高知のバー、「とまりぎ」を訪れた際の記録。
檮原出身の「亀子さん」が経営し、司馬さんも訪れた「飲み屋」だ。
(平成14年10月に一度単独コンテンツとして公開したものを「檮原街道」のコンテンツに組み込みました)

さらに、先日(平成15年9月)に伊予・宇和島からタックさん(城下町宇和島からの管理人さん)と共に宇和島から檮原へアプローチし、脱藩の道を辿った。
目 次
高知とまりぎ・檮原の町 1.高知とまりぎ
2.檮原座と歴史民俗資料館
 
檮原の郷士たち 1.維新の門
2.掛橋和泉邸
3.吉村虎太郎生家跡
脱藩の風景・津野山騒動 1.脱藩の道
2.津野山騒動
3.四国カルスト
4.司馬遼太郎と檮原



街道をゆく−檮原街道(脱藩の道)−

高知とまりぎ・檮原の町

1.高知とまりぎ
2.檮原座と歴史民俗資料館

平成15年10月10日UP
(取材日:平成14年9月28日/平成15年9月9日)

1.高知とまりぎ

そういう沢田君や中越君と一緒に「とまりぎ」という飲み屋に行った。
室内装飾の上等な店だが、あるじが姉と妹だけであるというのがいい。さらに姉妹がそろって梼原を誇りに思っているのも、当方としてはまことに結構な気分にさせられる。
(中略)
この店の女あるじは、
(中略)中越君より四歳うえである。とてもその年齢にみえないほどに、首すじのたおやかなひとだが、名は亀子だという。
名作『街道をゆく』27巻の「梼原街道」。司馬さんは”あこがれの地”である梼原(吉村虎太郎の出身地)に出かける前夜、梼原出身の人の「飲み屋」に出かける。
そこが「とまりぎ」。司馬さんによって、とても印象的に描かれている。
平成14年10月の高知取材にあたって、重里記者のお伴で、「とまりぎ」を訪れた。
高知市随一の繁華街・帯屋町。週末ということもあって、多くの人であふれている。はりまや橋と日曜市で有名な追手筋の間の一角に「とまりぎ2」はあった。店では『街道をゆく27・梼原街道』の登場人物・亀子さんがいた。

重里記者とカウンターに座る。重里記者が司馬さんのファンで、『街道をゆく』を読んできました。と言うと、亀子さんのお顔もほころぶ。
司馬さんの「梼原街道」取材は今から17年も前のことで、失礼だがお年をお召しになっているのではないかと思っていたが、予想を裏切り、若々しく凛として、背筋が伸びた「亀子さん」である。
今もしばしば梼原に帰られるそうだ。

当時の「とまりぎ」は別の場所にあり、亀子さんはお店を移し、今はひとりで「とまりぎ2」という店を切り盛りしている。
亀子さんはバッグの中から大事に紙に包んだ2枚の写真を見せてくれた。司馬さんとの写真だ。重里記者が「引き伸ばして店に飾られたら」と言うと、「恥ずかしいですから」と答える。
さっぱりした感じの方だが、一面、奥ゆかしい面もうかがわれた。

亀子さんのお話では、司馬さんはとても優しく気配りをする人だったそうだ。作家の先生などが来ると、失礼があってはいけない、と身構えてしまうものだが、司馬さんは務めて周囲の人が気疲れしないように気遣っていたという。亀子さんも緊張することなく、逆にとても楽しい一時を過ごすことができて、夢のような一夜だった、という。

重里記者と亀子さんはスポーツの話などで大いに盛りあがり、その後亀子さんはもとの(司馬さんが訪れた)「とまりぎ」に連れて行ってくれた。こちらは、息子さんが引き継いで営業されている。
店はカウンターに、丸テーブル席と、ボックス席。重里記者と私はボックス席に座り、亀子さんもいろいろと司馬さんのお話を聞かせてくださる。なんと、重里記者の座った席が司馬さんの席だったそうだ。

とても印象に残るお話があった。前に書いたように、司馬さんはとても優しい人だったが、亀子さんにもお酒をすすめ、「ママ、飲んでる?」と優しく語りかけていたそうだ。それも、ちゃんと亀子さんの目を見て話していたという。写真にしても、普通はお店の人が写真をお願いするところだが、司馬さんの方が、「ママ、写真を撮ろうか」と言ったそうだ。

亀子さんから司馬さんのお話をうかがうと、溢れるような優しさが想像される。しかし、単に優しいというだけでなく、無類の人間好き、人間に興味がある人だったのではないだろうか。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『峠』……司馬文学の登場人物は現実以上の存在感を持つ。その秘密の一端がわかったような気がした。


とまりぎ店内図
記憶が定かではないので若干の間違いはあると思います
席が空いていたら、司馬さんシートに座ってみてください。

2.ゆすはら座と歴史民俗資料館

土佐(高知県)檮原(ゆすはら)とよばれる山ふかい町がある。
−−ユスハラは、土佐のチベットやきに。
などといわれた。
まことに気になる土地で、二十余年来、そこへゆきたいと思いつつ、果たさなかった。

(中略)
檮原は、ほとんど桃源郷ともいっていいような僻地でありながら、教養の伝統がある。幕末、そういう小さな地域から何人もの志士を出し、ほとんどが非業にたおれた。著名な者をあげれば、天誅組の首領格だった吉村虎(寅)太郎がいる。虎太郎はこの僻地の郷士の出ながら、水準以上の漢詩をつくり、和歌もよくした。
それに、檮原の人情も言葉づかいもしっとりしていて、むしろ件の平野地方よりも上品な感じもうける。いまひとついえば、男も女も働き者が多い。
(『檮原街道(脱藩のみち)』より)
檮原・・・司馬さんが憧れた地・・・昨年(平成14年)9月の高知取材で、『檮原街道』にも出てくる高知のバー、「とまりぎ」を訪れた。檮原出身の亀子さんからも、檮原の良さをうかがっていた。以来、私にとっても憧れの地。
檮原へ行くには、高知からレンタカーを借りて・・・と思っていたが、今回、宇和島のタックさんの発案で、その逆方向、愛媛・宇和島側から檮原へアプローチすることができた。
宇和島を午前8時頃出発し、タックさんの車で檮原へ向かう。かなり険しい山の中を道路は進む。所々トンネルを潜る。この国道197号は、整備されるまでは細い道で、離合するにも大変だったらしい。現在も旧道が所々見ることができる。今は、道が整備されてほんの1時間程で檮原に行くことができる。(檮原には、高知や須崎からはバスが出ているが、宇和島側からはバスはない)


檮原町役場前に、到着する。いよいよ憧れの檮原だ。車をとめて町の散策に入る。町役場の前には歴史民俗資料館がある。
中には檮原の民具が所狭しと置かれ、檮原の歴史の概要、写真等の展示もある。受付にいらした中年の御婦人がとても親切で感動した。それに言葉づかいがとても穏やかだ。いわゆる土佐ことばとは若干違う。どちらかというと伊予に近いような印象を受けた。
歴史民俗資料館 展示物(闘牛関係)
司馬さんも書いているように、檮原は伊予との関わりが深い。この地を開いたのは藤原氏の一族だったそうだ。都から流されてきて、伊予の名族・河野氏の勧めで、伊予から山を越えて檮原に入り、この地を治めたということだ。
河野氏の勧めというと聞こえは良いが、実際はどうだったのだろうか? 藤原氏の一族と言えば、河野氏には多少煙たい存在で、体良く山の方に追い払った、のかも知れない。


受付の女性の方と少しお話する。昔は高知市への出張は、二泊三日だったそうだ。一日かけて高知市へ行き、一日仕事をして、また一日かけて梼原へ帰る。現在は道路も良くなり、日帰りも可能だというが、このあたり、司馬さんが「桃源郷といっても良い僻地」と形容したのも理解できる。
この時間の短縮は、平たく言えば道路が良くなったということで、実は愛媛への道も整備された。最も近い都会というと、宇和島になる。バスこそ無いが、高知へ行くよりも近く、買物や病院などは宇和島に行く人も多いらしい。


歴史資料館のお隣には木造の旧町役場が移築されて、資料館の別館となっている。本館は鉄筋だが、別館は正真正銘の木造建築物。それほど大きな建物でもなく、こじんまりとした暖かさを感じた。こちらにも民具や昔の衣装等が所狭しと展示されていた。
歴史民俗資料館・別館 別館2階の展示
歴史民俗史料館の先、少し坂道を登ったところに、ゆすはら座がある。愛媛の内子座等と同じく、昔からの芝居小屋が残っている。
ゆすはら座
『司馬遼太郎を歩く』
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