司馬遼太郎を歩く
(INDEX)へ戻る
『義経』取材レポート
鞍馬編 屋島編 (上) (下) 奥州歴史編 奥州平泉編 総集編

 

司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『義経』屋島編(下)

 


高松・屋島近郊MAP

源平古戦場(屋島檀ノ浦)MAP

4.佐藤継信

 「九郎、前へ出られよ。勇あらば矢を合わせん」
 と、教経は陣をどんどん前進させた。挑まれれば出るのが、武者の習慣であった。義経は、前へ出た。
 たがいに弓をしぼった。が、義経には腕の力がない。ひく力が乏しいために弓は弱く弦を張ってあり、自然かれの矢は遠くへ飛ばず、貫徹力もよわい。そのことを、義経の郎党たちは知っていた。
 (とても、能登守には)
 と、みな狼狽したとき、義経が一矢を放った。その矢は教経までとどかず、芝の上に落ちた。教経が、弓をしぼった。
 「あっ」
 と、義経の前に走り出たのは、奥州の藤原秀衡がつけてくれた佐藤継信であった。立ちふさがったとたん、教経の矢は継信のくびの骨を射切ってまっさかさまに射落した。

『義経』より

敷地内に福島飯坂ライオンズクラブの顕彰碑があった。それによれば佐藤兄弟は「みちのくいで湯の里飯坂大島城の出身」と記されていた。
射落畠
この場所で佐藤継信は義経をかばい、矢に射られて亡くなった
 

屋島の合戦において一際印象深いのは佐藤兄弟の一人、継信の死ではないか。
奥州平泉・藤原氏の郎党。藤原秀衡が単身平家との戦いに出向く義経を哀れみ、義経になついていた佐藤兄弟を付けたという。
屋島では、平教経の矢にあたりそうになった義経をかばって継信が亡くなる。

さて、この佐藤兄弟はかなりの名門の出であり、出自に疑問が多い義経の家来の中にあって、筋目正しい貴重な存在だったと思われる。
奥州藤原氏自体が、平将門を討った藤原秀郷の子孫だが、佐藤氏もまた、秀郷流に属する。比較的遅い時期に奥州に移り住み、現在の福島市近郊を本拠地とした。藤原氏との姻戚関係もあったようで、奥州の政権における位置も高い。
単に秀衡が付けた郎党、といった程度の存在ではなかったはずだ。むしろ関東の有力武士(小山氏や上総氏)と同等以上の力を持った氏族だったのではないだろうか。

実は、屋島にはこの佐藤継信の墓が二つある。義経が建てたと伝えられる墓(琴電八栗駅のすぐ南側)と江戸時代になって初代高松藩主・松平頼重が建てた墓
さらに、佐藤継信が矢にあたった場所も射落畠として伝えられている。
屋島の史跡においても、佐藤継信の死がいかに大きく見られているかがわかる。

高松短期大学の津森明先生は、継信の死の逸話において二つの点を指摘された。
まず、「佐藤継信の逸話は封建領主にとって大変都合が良い話であり、そのために江戸時代にも新たに墓が作られた」ということだった。
主君を庇って死ぬ…確かに感動的ではあるが、封建領主はこの話を利用し美化して家臣の忠誠心を強めた。そう思えば無責任に感動することもできないが、所詮封建制度とはそのようなシステムだった。家臣は主君に命がけで奉公し、それに対して主君は財産(主に土地)を安堵する…それが多重に重なり、大きなピラミッドを形成する。上下の双方向の運動性、とも言えるのではないか。

さらに、佐藤継信の死に際し、義経は遺骸を守り、手厚く葬った。さらに、供養のために、僧侶に愛馬・大夫黒(たゆうぐろ)を寄進して成仏を祈った。津森先生はこの逸話から義経の部下を使う巧みさ、心を惹き付けた部分がうかがわれるという。
義経は政治的感覚が欠落しているとともに、肉親や部下に対しては愛情が深い。このあたりに義経がヒーローとして語り継がれた理由があるような気がする。


↑「佐藤信」と記されていた
広い敷地にいくつもの墓石や記念碑が建っていた。説明板には昭和6年5月に継信30世の孫・山形県人の佐藤信古氏が大修築を加えたと記されていた。

太夫黒の墓
義経は継信の供養のため、志度寺の覚阿上人に愛馬・太夫黒を施した。その太夫黒がたおれてここに埋められたという。佐藤継信の墓の敷地内にある。
八栗駅南側の墓(伝義経建立)

 


佐藤継信の墓


洲崎寺
こちらは高松藩初代藩主・松平頼重が建立。屋島の麓、相引川の河口の近くにある。 佐藤継信が亡くなったとき、遺体をこの寺の本堂の扉に乗せて運んだ。簡素で美しい庭がある。

5.屋島の合戦

義経は屋島の平家を攻めるにあたって、対岸の古高松村等の民家を焼き、大軍で攻め寄せたように見せかけた。この火に驚き、平家方の大将・平宗盛は驚き、安徳天皇を奉じて船に乗り移ったという。しかしながら、この時点でも戦況は圧倒的に平家方に不利だった、とも言えない。むしろ互角以上だったのではないだろうか? なにしろ義経の軍勢は圧倒的に少なかったのだ。
義経は一の谷の合戦では天才的な戦術を見せた。屋島においても相手の意表を衝いたという点では天才的だが、一の谷のように決定的な強さを見せつけたかといえば、そうではないと思う。

平家方にとっての最大の痛恨事は、軍事においてはまったくの無能だった宗盛が大将だったことだ。上方武士は坂東武士に劣るとは言っても、平家方には平知盛(新中納言、宗盛の弟)や平教経(能登守、宗盛の従兄弟)など優れた武将もいた。

平宗盛は清盛の子ではなく、傘職人の子とすり替えられたという伝承もある。清盛の妻・時子が実家で出産したとき、女の子であったので、たまたま家に出いりしていた傘職人の男児と取替えたのだという。
清盛は一族和合を願う男であり、そのような噂はまったく気にせず、宗盛を嫡子とした。一族の仲が良いのは平家の美徳ともいえ、一族血で血を洗う源氏とはまったく対称的だ。私個人としても友人になるなら、冷酷さを秘め、油断のならない源氏よりも、風雅で社交的な平家の公達たちの方が比較にならない程良いと思う。
だが、傘職人の子の話は差し置いて、軍事的に無能な宗盛が嫡子であるという理由で指揮を取ることになったことは、平家の美徳が戦という命がけの場では悲しくも役に立たなかったということを暗示しているように思えてならない。

平家は屋島と壇ノ浦を抑えることで、瀬戸内海を支配化においていた。したがって屋島を失うことによりの平家の劣勢は決定的になる。西国の武士たちの多くも源氏の参加に入り、壇ノ浦の合戦で平家は滅亡する。


安徳天皇社

安徳天皇の行宮が置かれていた。場所は相引川が瀬戸内海に注ぐ河口の西岸、屋島側に位置する。周囲には畠が広がり、現在は小さな宮があるだけ。子供が遊び、のどかな雰囲気になっている。東側はなだらかな傾斜から平坦地になり、海に至る。(平坦地は昔は海だったのではないか。そうであれば、海岸線のすぐ近くに位置していたことになる)


総門跡

弓流しの少し南に位置する。庵治の六万寺にいた安徳天皇を守るために建てられた。


弓流し

相引川の東側(庵治側)に位置する。義経は戦のおり、弓を海に落としてしまった。小柄で筋力に劣る義経は、それほど強い弓は使っておらず、この弓を敵に拾われ、「源氏の大将はこの程度か」と嘲られるのを恐れ、危険を賭して引き揚げた。

相引川
(橋より上流を撮影)
左側が庵治、右側が屋島方面

橋より、下流、瀬戸内海方向を撮影
左側が屋島、右側が庵治
源平合戦の史跡は、相引川の両側に位置している。現在は埋め立てられて川になっているが、かつては屋島と対岸の庵治を隔てる狭い海だった。

 

取材を終えて

屋島から檀ノ浦へは、普通はケーブルカーで降りて、コトデンや徒歩で移動…ということになると思うが、地図を見ると、談古嶺の近くから直接山の下に通じる道があるようだ。この道を下れば近道になる…。それにこの道を下れば、多少は古の源平の武者の気持ちに近づけるかもしれない(津森先生のお話にも触発されていた)。屋島寺の宝物館や談古嶺の売店で道を尋ね、遍路道を降りることにした。ただ、宝物館の方が「遍路道というより、けもの道ですよ」と言われたのが気にかかるが。

かなり急な下り坂が続く。重里記者も、私も「前回取材の鞍馬に比べると、下りだから楽ですね」と話していたが…急傾斜を降りるには、一歩一歩体を支えながら進まなければならない。足を下ろす度の衝撃と筋肉への負担…。余裕の口ぶりは最初だけだった。本当に遍路道というよりけもの道。
道の半ばからは足が進まなくなる、だが、ここで後に戻る(上る)こともできない。最後は後向きに下りる始末(…これで結構楽に降りることができました。使う筋肉の部位が違うのでしょう)。源平の武者の気持ちを味わうつもりが、「落武者」のようになってしまった…。


遍路道(ケモノ道?)

しかしながら、かつての源平の武者達は、重い鎧を着込み、あるいは荷物を背負い、このような険しい道を上下したのだと思うと、感慨深いものがあった。それに、「落武者」と書いたが…かつての落武者たちも、「足が疲れて動かない…でも追っ手がくるので、動かない足を動かしてさらに逃げる」そんな状態になることも多々あったのではないか。その辛さがごく僅かだが、察することができたような気もした。

遍路道を降りると、麓の住宅街や田畑に出る。通りかかった50代(?)くらいのご婦人に、道を尋ねる。この方に「屋島から遍路道を降りてきました」と言うと、「道は険しかったでしょう」と言われる。私達だけでなく、よく若い人なども遍路道を上下しているそうだ。
このご婦人は道沿いの家にお住まいで、疲れたお遍路さんにはよく声をかけ、みかんなどを振舞われているということだった。四国ではよく「御接待」という言葉を耳にするが、このご婦人と言葉を交わしていると、その心が伝わってくるような気がした。

司馬遼太郎を歩く
(INDEX)へ戻る
『義経』取材レポート
鞍馬編 屋島編 (上) (下) 奥州歴史編 奥州平泉編 総集編