
| 司馬遼太郎を歩く・取材レポート 『義経』奥州歴史編(下) |
4.前九年の役(1051〜1063)
俘囚の長(というよいり奥六郡の王)安倍氏の力が強まり、いよいよ安倍氏が衣川を越えて押し出す。ここに前九年の役が始まり、東北の長い戦乱の時代が始まる。
陸奥守・藤原登任は武家の名門・平氏に属する平繁成を出羽守として呼び寄せるが、鬼功部の戦(1051)で安倍頼時(?〜1057)の嫡男・貞任(?〜1062)に大敗。朝廷は武家最強の男・源頼義(988〜1075)を陸奥守として派遣する。
頼義は安倍氏を抑えることにより、陸奥での勢力伸張を計ろうとしたが、上東門院(藤原彰子)治癒を祈る大赦のため、安倍一族は赦され、源頼義は戦の大義名分を失う。陸奥守の任期も切れようとして焦る頼義。一人の部下が殺害されるが、頼義はこの犯人を安倍貞任とした。この部下の娘を貞任が望んだが、断られたのを恨んでいたと濡れ衣を着せた。頼義は貞任の首を安倍頼時に要求したが、頼時はこれを断り、戦は再開、源頼義も陸奥守に再任される。
このとき、藤原経清は安倍氏の長・頼時の娘を妻としていたが、当初は国府軍に属していた。しかし、やがて安倍軍のもとに走り、有力な武将として活躍する。同じく頼時の娘を妻としていた平永衡が背信を疑われて殺害されたことが契機になったという。さて、最強の男。源頼義の力を持ってしても安倍氏は攻めあぐねた。源頼義は津軽の豪族・安倍富忠をそそのかし、安倍頼時はそれを諌めにいくが、矢に当たって死亡。
源頼義はこのときとばかりに厳冬の中、安倍を襲おうとするが、貞任に壊滅的な敗北を喫する。(黄海の戦い、1057)
頼義の陸奥守の任期もようやくに切れ、長い戦いも終わろうとしたが、当初は安倍方だった、出羽の俘囚の長・清原氏を見方につけることに成功。次第に戦況は国府軍に有利になり、遂に厨川の戦で安倍氏は敗北、藤原経清と安倍貞任は鳩首される。源頼義は父の代から源氏に臣従し、敵に寝返り、自分を苦しめた藤原経清を深く恨み、その死に際し、刀の刃を石で落とし、鋸のような鈍刀で経清の首を落とすという、極めて残忍な方法を取った。
藤原経清と平永衡の死……ここに源氏の苛烈さが表れており、後の「同族血で血を洗う」という一面に共通した冷酷さの萌芽が表れているように思う。源氏という氏族はことごとく苛烈であり、それが驚異的な武力につながっていたが、源頼朝の子孫(頼家、実朝、公暁)の末路を思うにつけ、最後にはその冷酷さにより自らも葬られたように思う。個人的な見解だが、源頼義は後の織田信長を思い出させる。信長もまた部下には苛烈で疑い深く、最後には明智光秀に滅ぼされた。源頼義は藤原経清に滅ぼされたわけではないが、同様な理由で経清に見限られ、敵側に寝返られた。
案外現代においても、この二人のようなトップとその組織は、形を変えて生きているのではないか。部下を信頼するより疑い、能力・体力の限界まで働かせる。結果を出せれば優遇するが、出せなければごみのように捨てる…しばしば耳にする話ではあり、人間社会一つの側面なのかも知れない。
安倍氏・清原氏・奥州藤原氏関係略系図
5.後三年の役(1083〜1087)−奥州藤原氏成立−
源頼義は陸奥を自らの勢力下におくという宿願を達したかにみえたが、源氏の力の伸張を恐れた京の公卿たちは、源頼義を伊予守に任じ、陸奥から引き離す。
朝廷は源頼義軍に参戦した出羽の清原武則を鎮守府将軍に任じ、事実上清原氏が出羽と陸奥の奥六郡以北(現在の岩手・秋田・青森)の支配者となった。
頼頼義の嫡男・源義家(1039〜1106)は出羽守に任ぜられるが、鎮守府将軍家となった清原氏の下になるという理由もあったのだろうか、辞退している。さて、藤原経清の妻は安倍頼時の娘であり、その二人の子が奥州藤原氏の初代・藤原清衡(1056〜1128)となった。父からは摂関家につながる武家の名門・秀郷流藤原氏の血を、母からは奥六郡の王者・安倍氏の血を受け継ぐいでいる。
経清の死後、その妻は敵方である清原武則の嫡男・武貞の後妻に迎えられ、清衡もまた清原の家で養われる。
武貞には先妻との間に嫡男・真衡(?〜1083)があり、さらに清衡の母と武貞の間に家衡(?〜1087)が生まれる。真衡と家衡は父(清原武貞)を同じくし、清衡と家衡は母(安倍頼時の娘)を同じくし、真衡と清衡はまったく血の繋がりがない…藤原清衡はこのような複雑な環境で育った。清原武貞の死後、真衡が家督を継ぐ。ゆるやかな一族連合の統治形態を持っていた清原氏だったが、真衡は権力を自らに集中させようとする。さらに子のなかった真衡は、まったく血のつながりのない源平の血を引く夫婦を養子に迎えた。このとき、真衡から屈辱的な振舞いを受けた、一族の長老・吉彦秀武は反旗を翻し、後三年の役が始まる。
そしてこのとき、源義家が陸奥守に任命されて陸奥に帰ってきた。清衡は弟・家衡と連合して真衡と戦うが、参戦した源義家に降伏。いったん真衡が勝利を収めたかに見えたが、俄かに病死。奥六郡は清衡と家衡が分割して治めることになるが、ここで清衡と家衡が再び争い、家衡は清衡の館を襲い、妻子を殺害。叔父・武衡と共に清原氏の本領である出羽の柵にこもる。源義家と清衡は連合して家衡と戦うが、苦戦。義家の弟・義光が参戦することにより、ようやく勝利を収める。
しかしここで源義家は陸奥守を解任され、しかも後三年の役は清原氏の内紛であるとして恩賞も与えられなかった。
奥六郡及び出羽は清衡に残され、清衡は父・経清の姓である藤原に復す。江刺から衣川を越えた平泉を首都とし、ここに奥州藤原氏が始まる。
二代・基衡、三代・秀衡の間に奥州藤原氏は南は白河の関から北は外が浜(津軽)まで全東北を支配化に収め、金と馬という財力を背景に黄金に彩られた絢爛たる仏教文化を花開かせる。
6.藤原清衡と源義家の謎
奥州藤原氏の成立を考えるとき、源氏との因縁の深さを思わずにはいられない。藤原経清の父が関東にいた頃から関わりが始まり、経清自身は陸奥に野望を持つ源頼義に惨殺された。
一方、清原氏に養われていた清衡が陸奥の王者となり、奥州藤原氏が成立するのは、源頼義の子・義家の力によるとも言える。源氏の陸奥への宿願も併せて考えると、単純に敵味方だけでは割りきれない複雑な関係に思える。考えてみれば、後三年の役はわからない(解釈に苦しむ)出来事が多い。
清原武貞が藤原経清の妻を娶ったとき、その子・清衡を清原家の子として育てたということだ。母の連れ子ということだが、懐に敵を抱えるようなものだ。私見だが、清原武貞は自分の家で育てるよりも、どこかあたり障りのない家に養子にやる…など考えなかったのだろうか? 清原氏にとって安倍氏は姻戚関係にあり、かつては主筋にあった。そのことも影響していたのだろうか。それとも清原武貞は、旧敵の遺児であっても受け入れるような、度量の広い人物であったのか。さらに清原真衡の養子の件だ。いくら子がないとはいえ、平氏の血筋の成衡に源義家の妹を娶わせ、夫婦で養子に迎えるというのも理解に苦しむ。継母の連れ子である清衡は問題外としても、家衡には継承に問題はないはずだ。安倍の血筋を嫌ったとしても、叔父武衡の血筋、あるいは後三年の役以前の清原宗家・光頼の血筋も続いている。
源平の血筋をいれ、特に源義家に近い人物を迎えることにより、清原家の格を上げ、政治・軍事的な安定を計ろうとしたのだろうか。
それに加えて真衡の死。勝利を収めたところでの突然の病死。あまりに唐突すぎるように思える。暗殺された可能性も否定できないのではないか。真衡の死後、奥六郡は源義家の裁定により、清衡と家衡に分割されて与えられ、真衡の養子である成衡には与えれていない。真衡は一応勝利を収めた形になっており、成衡が継いでもおかしくはない。成衡の妻は義家には妹にあたる。これにはどのような理由があるのだろうか? 真衡というバックが無くなり、馴染みの浅い養子では清原の一族を抑えることは難しいと考えたのだろうか?
そして後三年の役における最大の謎は清衡が最終的に勝利を収めたということだろう。真衡・家衡に比べて圧倒的に不利で、清原家では冷遇されていたに違いないと思われる清衡。偶然が積み重なった奇跡なのだろうか。それとも奥六郡では尊敬を受けていた安倍氏の血を引くということがどこかで有利に働いたのだろうか。
この奇跡に影響を与えたとすれば、源義家以外には考えられない。真衡が亡くなった時点で自分の妹婿である成衡に清原家を継がせなかった義家。清原の血を直接引いていないという点では清衡も同じではないか。さらに家衡・清衡の争いに、清衡側に付いた。血筋からいえば、家衡は父からは清原の血を、母からは安倍の血を受けている。東北の王者に最もふさわしい血統である。そこをあえて清衡に味方しているのは、家衡が東北の王者になれば、血統的に尊ばれ、自分の思い通りにならないと思ったのか。
源義家にとって、清衡の父・藤原経清は前九年の役において苦しめられると同時に父・源頼義が惨殺した人物。複雑な間柄ではあるが、父が藤原経清に残酷な死を与えたことに負い目を持っていたのか。
源義家は、陸奥守を解任されて京に戻った後も、藤原清衡を擁護していたらしい。清衡に対して格別な好意を持っていた、あるいは二人はお互いに認め、理解した間柄だったのか? 事実は義家と清衡だけが知っているのかも知れない。
安倍氏・奥州藤原氏略年表 年代 出来事 802 アテルイの乱終結 征夷大将軍・坂上田村麻呂、奥六郡に胆沢城を築く 935〜940 承平の乱(平将門の乱) 藤原秀郷(奥州藤原氏の祖)、平貞盛らと共に鎮圧 1028〜31 平忠常の乱 源義信が鎮圧。源氏が関東で力を伸ばす 1051 前
九
年
の
役前九年の役始まる 安倍頼時、衣川を越えて侵入 鬼功部の戦い 安倍貞任、平繁成(国府軍)に圧勝 源頼義、陸奥守として下向 1053 源頼義、鎮守府将軍を兼ねる 1056 藤原清衡(奥州藤原氏初代)生まれる。父は藤原経清、母は安倍頼時の娘 1057 安倍頼時、同族の安倍富忠に殺害される 黄海の戦い 源頼義・義家、安倍貞任・藤原経清に潰滅的な敗北を喫する 1062 前九年の役終わる 厨川の柵で安倍氏滅亡、安倍貞任、藤原経清殺される
(源頼義は藤原経清を鈍刀で惨殺)
清衡の母、敵方だった清原武貞に再嫁
源頼義は陸奥守を解任され、清原氏が奥六郡、出羽三郡の実権を握る1063 清原武則、鎮守府将軍に任ぜられる 1083 後
三
年
の
役後三年の役始まる 清原真衡の無礼な振舞いに、一族の長老・吉彦秀武、戦を始める
清衡と家衡もこれに加わる1086 清衡の妻子、家衡に殺害され、清衡は義家と組する 1087 後三年の役終わる 藤原清衡と源義家、出羽の金沢の柵にこもった清原家衡を滅ぼす 1095 この頃清衡、江刺から平泉に移る 1105 清衡、中尊寺造営に着手
この頃基衡生まれる1122 秀衡生まれる 1126 中尊寺落慶法要 1128 清衡死亡 1157 基衡死亡 1170 秀衡、鎮守府将軍に任ぜられる 1174 源義経、平泉へ下る 1180 源
平
の
合
戦源頼朝、伊豆で挙兵
富士川の合戦 1181 平清盛死亡 1184 木曽義仲敗死 一の谷の合戦 1185 屋島の合戦
壇ノ浦の合戦平氏滅亡 1187 秀衡死亡 1189 義経、藤原泰衡に攻められ平泉高館で自害 平泉の役 源頼朝奥州に兵を出し、藤原泰衡逃亡、家臣に殺害される
奥州藤原氏滅亡