『司馬遼太郎を歩く』取材レポート
『妖怪』
〜京都〜
平成15年4月4日UP
(取材日:平成15年2月1・2日)
| 1.司馬さんと幻術小説 2.『妖怪』という小説 3.物語と人物 4.日野富子と応仁の乱 5.上御霊神社 6.等持院と足利義政 |
『司馬遼太郎を歩く』取材レポート
『妖怪』
『妖怪』…この小説をどのように把握すれば良いのだろうか。
今までの「司馬遼太郎を歩く」は、『伊達の黒船』『重庵の転々』から始まって『歳月』『義経』『功名が辻』と歴史上の実在の人物を取り上げてきた。もちろん司馬さんの独自の解釈やフィクションが織り交ぜられているが、歴史に沿った作品と考えても良いだろう。『妖怪』という作品は司馬さんの幻術小説ではかなり後期の作品になる。日野富子、足利義政などは登場するが、主人公は室町という中世最後の時代、それも京という街ではないかとも思う。
ここではまず、司馬さんの幻術小説から考えてみたいと思う。1.司馬さんと幻術小説
司馬遼太郎といえば、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』を始めとする幕末もの、次いで『国盗り物語』などの戦国ものが一般的なイメージとして浮かぶ。しかしながら、彼の文学的系譜を考えると、その出発点は幻術ものにある。
昭和30年、産経新聞の記者時代に『ペルシャの幻術師』で講談倶楽部賞を受賞し、それからしばらくは中国や西域を舞台にした小説を発表し続け、次第に忍者ものなど国内を舞台にしたものも書くようになる。
このことは、イマジネーション豊かなファンタジー的な色合いから、イマジネーションは保ちつつも、少しずつ歴史的な方向に近づいているように思える。さて、司馬さんは昭和34年、『梟の城』で直木賞を受賞する。忍者ものではあると共に、歴史小説的な側面も持つ。そして昭和37年に『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』の連載を始める。ここで小説家・司馬遼太郎のイメージが完成されたのだと思う。
さて、それでは司馬さんの小説における幻術小説とはどのような意味合いを持つのだろうか?
司馬さんの歴史小説においてしばしば気がつくことは、歴史的事実をバックボーンにしながらも、巧みにフクションを織り交ぜて独自の世界・人物を創造していることで、それがしばしば現実以上の存在感を持ってしまうことだ。まさしく司馬さんこそが幻術師なのではないかと思える。
この司馬遼太郎を歩くの取材レポートでも幾つか、事実との相違に驚くことがあった。
宇和島を訪れたとき、『花神』で語られるような大村益次郎とイネの間に恋愛関係はなかったといこと。
『歳月』の取材では、江藤新平の孫にあたる江藤冬雄氏が『歳月』が事実とは異なると指摘していて、自ら江藤新平の伝記を執筆をされていたということ。
『功名が辻』において、実際はなかなかに有能な山内一豊という人物を無能・凡庸な人物に印象付けるように書いていること。
司馬さんは小説家であって、ノンフィクション作家というわけではないから、事実と異なることを書いても、別にそれは非難されることではないと思う。ただ、事実と異なった、独自の世界を作り上げているということでは一面ファンタジックな幻術小説を書いていた部分が形をかえて活きているような気がする。さらに司馬さんの文章。司馬さんは正岡子規の「写生の精神」に傾倒している。しかしながら、司馬さんの文章は「見たものをありのままに書く」というよりも、実は「読ませる」文章ではないかと思う。緩急自在、時に自分の考えなどを巧みに挿入して、読者を飽きさせず、自分の小説世界に引き込む…。「写生の精神」ということなら、例えば新田次郎氏などの方が遥かに写実的な文章を書いているように思う。
司馬さんにとっての幻術小説とは、天性のストーリー・テラーである司馬遼太郎のオリジナルな姿、出発点ではないだろうか。後に歴史小説という分野で天稟を発揮することになったが、その構成・文章の中にもオリジナルな姿は留められており、歴史小説にふくらみを持たせ、読者にとって魅力ある姿にしているのではないかと思う。
2.『妖怪』という小説
『妖怪』は、昭和42年から翌年にかけて読売新聞に連載された。最後の幻術小説であり、翌43年には『坂の上の雲』の連載が始まっている。
司馬さんの代表作が『坂の上の雲』と目されていることを考えれば、『妖怪』はファンタジー・西域中国志向から現実志向へ移っていった司馬さんにとっての一つの区切り、ファンタジーの終焉だったのかも知れない。(ただ、小説としての最後の作品が『韃靼疾風録』であることは、司馬さんが最後に出発点に戻ったと見ることができるのかも知れない)妖怪の舞台は室町時代、応仁の乱前後の京都。元来基盤の弱かった室町幕府がその構造の弱さ・矛盾を露呈し、爛熟していった時代。そして中世最後の時代。その後には戦国の世が始まり、日本は近世を迎えることになる。
3.物語と人物
熊野生まれの源四郎は、足利六代将軍の落胤(実はかなり怪しい)。将軍になろうと京へ上る。京では八代将軍・足利義政の時代。日野富子と側室今参りの局(通称・お今)が熾烈な権勢争いを繰り広げている。
お今は義政の乳母上がりであり、義政の寵愛を一身に集めていたが、やや年嵩となり、正室であり女盛りを迎えた日野富子に押されぎみではある。そしてお今は「唐天子」という強烈な技を持つ幻術師を”飼って”おり、富子もまた「指阿弥陀仏」という幻術師を身辺に侍らせる。
源四郎はも二人の女性の争いに巻き込まれ、その間印地の大将となったり、関東に剣術修行に出たりする。
富子は義政の子を流産し、劣勢になるかに見えたが、窮地を逆に利用、お今が呪い殺したという噂を流し、お今は琵琶湖の小島に流され、そこで斬られる。『妖怪』の形式的な主人公は源四郎だが、それは形式的なものであり一種の狂言廻し的な役割を持つ。強烈な印象を残す幻術師「唐天子」も重要な人物である。物語は日野富子と今参りの局の対立を通じて進み、その意味ではこの対立が物語りの骨格を成す。
しかしながら、女の争いをテーマにした小説というわけでもなく、日野富子に焦点をあてたというわけでもなさそうで、混沌とした世紀末的な室町時代の京の世相そのものがテーマなのかも知れない。ある意味では『妖怪』そのものが”混沌”をテーマにしており、明快にとらえにくい小説ではないかと思う。人物の描写については、歴史上著名な日野富子や足利義政よりも、今参りの局の方が印象に残る。義政の寵愛を一身に集め、やがて義政に飽きられ、富子との争いに劣勢になる。しかしながらそれでも義政の寵愛を引き止めようとし、飽きられつつある現実を認めようとしない。そして愛憎の末に義政の怒りを買い、殺される。
歴史的にもあまり史料が残っておらず、詳細がわかりにくい人物だが、日野富子以上に女性としての存在感を感じさせる。4.日野富子と応仁の乱
日本の歴史上に名を残す女傑の一人、日野富子。日野家は藤原氏に属し、代々足利将軍家の夫人を出してきた。日野富子もまた七代将軍・義政の夫人となった。
義教には当初嫡子がなく、僧籍にあった弟の義視を還俗させて後継者に定める。後見役は細川勝元だった。だが、その直後に富子に男児が生れる(足利義尚)。富子は義視に対抗するため、義尚の後見役には細川勝元と並ぶ実力者・山名宗全を指名する。
こうして将軍争いに端を発した争いは、細川・山名の争いへと発展し、応仁の乱が起きる。この先、戦国時代に突入するわけだが、肝心の将軍争いは、というと、下記のような経緯を辿る。足利義尚(富子の子)が8代将軍職につくが、若くして亡くなる。
↓
義視の子・義材が9代将軍になるが、義視が再び勢力を伸ばしてきた。
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日野富子、細川勝元の子と結んで、夫義政の甥にあたる義澄を10代将軍につける。以上の経緯からもわかるように、日野富子は自らの権勢と蓄財のためにかなり複雑な行動を取っている。その変わり身の早さも凄まじい。蓄財には長けていたが、結局自分の安定した政権を作り上げ、自らの子孫や身近な存在に譲るということには程遠く、ひたすらあがき続けたような印象もある。
結局政治的安定を望むべくもない時代だったということだろうか。彼女が蓄財に走ったのもそういう社会的な背景があったのかも知れない。そう思うと、一人の女性としては淋しい一生だったのかも知れない。
日野富子は爛熟した室町時代を象徴するかのような人物であり、その人物が近世の幕開けとなる応仁の乱を起こしたことは決して偶然ではないような気がする。さて、『妖怪』は司馬さん最後の幻術小説だが、興味深い記述がある。絶大な幻術を駆使するかに見える唐天子の術が通じない相手がある。一つは兵法者であり、もう一つは浄土真宗の信徒。
いずれも合理的な思考をし、神秘的なものを認めないという点で共通している。つまりは幻術とは、その存在を信じればこそかかるまやかしの術であり、頭からそれを信じなければ幻術にもかからない。いわば、人の「思い込み」の上に成り立ったものだという。
『妖怪』は応仁の乱前後の時代を描き、中世の終末と近世の到来の時代でもある。その時代、合理的思考とされる浄土真宗が勢力を拡大していくところに、司馬さんのこの時代に対する見方が洗われているように思った。
5.上御霊神社
重里記者と応仁の乱・勃発地の跡である上御霊神社を訪れた。
2月の京都は寒く、底冷えという言葉を身をもって知った。地面からじわじわと寒さがしみてくるような感じだ。
神社の前には「応仁の乱・勃発の地」の碑がある。
境内には近所の人が散歩に来ているようであり、熱心にお参りをする人もいた。
数々の戦乱を経てきた京の地。だが、そんな歴史を感じさせない、穏やかで静かな場所だった。
応仁の乱勃発地の碑
上御霊神社入口
本殿
境内の様子
6.等持院と足利義政
京都市外の西に位置する等持院には、足利将軍歴代の像が安置されている。
足利尊氏は、さすがに「武将」といった強面の雰囲気だが、気のせいか、時代を経ていくと、顔立ちが次第に貴族化してくるような気もする。
思えば、室町幕府ほど基盤の弱い政権は珍しいと思う。足利尊氏は鎌倉幕府を倒したが、多くの武将の力を借りなければならず、南北朝の戦いを経て、三代将軍・義満のときにはかろうじて安定期を迎えたが、足利義政の時代、応仁の乱が起こり、戦国時代へと突入する。政治・軍事の面では京都に政権を開いたのがまずかったような気もするが、文化の面では、多くの伝統芸能がこの時代に生まれる。その背景には京という文化都市が背景になっていたのではないだろうか。
その意味では銀閣を築きつつ戦乱を招いた義政は、室町幕府を象徴するような人物のように思う。一方では日野富子や今参りの局など、女性に振り回される、極めて普遍的な男性だったのかも知れない。
等持院内部(瀟洒な庭園と茶室が見える)
足利義政像
応仁の乱をどのような思いで見ていたのだろうか?
『司馬遼太郎を歩く』
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