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『街道をゆく−南伊予・西土佐の道/梼原街道』 伊予吉田の風景 宇和島の風景(上)(中)(下) |
街道をゆく-南伊予・西土佐の道-
宇和島の風景(下)
| 目 次 | ![]() |
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| 上 | 1.和霊神社と山家清兵衛 | |
| 中 | 2.愛宕山 3.神田川原 4.天赦園 |
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| 下 | 5.土居通夫と『花屋町の襲撃』 6.松丸街道 7.司馬遼太郎と宇和島 8.宇和島の思い出〜コクリコ〜 |
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| 宇和島〜松野町〜西土佐村略図 |
5.土居通夫と『花屋町の襲撃』
宇和島を出た司馬さんは、西土佐から四万十川へと向かうが、その途中、自作の小説『花屋町の襲撃』の土居通夫(1837〜1917)について言及している。
土居通夫、というと、一般に馴染みのない方も多いかも知れないが、後に大阪商工会議所会頭を務めた人物だ。大阪経済会の重鎮とも言える。
彼は宇和島藩士・大塚南平の六男として生まれ、母の生家・土居家を継いだ。脱藩前の坂本龍馬も宇和島を訪れたことがあり、土居通夫も龍馬に会い、影響を受けて宇和島から脱藩した。宇和島藩は、伊達宗城という開明的な藩主を持ち、彼の藩士に対する統制もしっかりしていたため、土佐のように脱藩者を多数出すことはなかった。土居はその中の数少ない人物ということになる。
土居通夫は、大阪に出て豪商・鴻池の丁稚となりながら、維新の志士たちと交流し、やがて陸奥宗光のち知己を得て鴻池を辞す。やがて龍馬は京都で暗殺されるが、維新後は大阪控訴裁判所所長を勤めた。
後、官を辞し、大阪商工会議所会頭等を務め、大阪経済会の発展に尽くした。
土居通夫は大阪の通天閣を建てた人物でもある。通天閣の名称は、土居通夫の名から取られている。明治45年(1912)、凱旋門とエッフェル塔併せたような外観で建造された。したがって、当時は塔の下を公道が通っていたという。(現在のものは昭和31年に建て替えられている)
さて、小説『花屋町の襲撃』だが、陸奥宗光が中心となり、龍馬を暗殺したと目される紀州藩士・三浦休太郎を襲撃するという筋書きだ。
司馬さんは土居を暗殺者として描いている。この中で司馬さんは土居を居合い抜きの達人「後家鞘の彦六」、襲撃の実行者として描いている。が、実際にはこれはフィクションで、土居通夫が暗殺者として働いたという証拠はないらしい。
土居が脱藩して大阪で鴻池の丁稚になり、維新の志士たちと活動していた・・・その時代の行動は不明確な部分が多く、そのあたりから司馬さんは想像を膨らませて書いたのではないか。
土居通夫といえば宇和島出身者の偉人としては、児島惟謙と並ぶ存在ではないかと思う。
児島惟謙が今日でも広く名を知られているのは、「大津事件」との関わりではないか。日露戦争前夜、明治24年、ロシア皇太子が訪日した際、滋賀県大津市で警備巡査津田三蔵が皇太子を襲うという事件が起きた。当時のロシアとの緊張した関係から、陸奥宗光、伊藤博文、山形有朋、黒田清隆、井上馨らは、極刑(すなわち死刑)に処すよう決めたが、児島は普通人の法律で裁くべきである、とし、無期懲役とした。法に対する権力の介入を排除し、三権分立を守り通したことから「護法の神」と言われた。
児島はこの他、「鶴岡事件」でも、廃藩置県後も封建制度を守って県民の一切の権利を認めなかった地で「法に背き、新政府の威信を傷つける。」として、大久保内務卿に強硬な意見書を送った。このあたり、初代司法卿・江藤新平の考え(法の遵守と、それによる人民の保護)を受け継ぐ人物だったのかも知れない。この松丸街道は、江藤新平が宇和島から土佐へ逃れた道のりでもある。
偶然だが、土居と児島は同年(1837)の生まれであり、岩松(現在の津島町)の豪商・小西家(獅子文六の小説『てんやわんや』相生長者のモデル)で働いていた。そして脱藩して一事司法省の管轄で働いたことも共通している。
(土居通夫・児島惟謙については、タックさんの「城下町宇和島から」のコンテンツを参考にさせていただきました)
児島惟謙像(宇和島城・上立門横)
松丸というとかつての宿場に入ると、ところどころに古い建て方の家がのこっていて、どこか古邑のにおいがする。司馬さんが伊予で最後に訪れた町が松野町。私も短時間ではあるが、町の中心部を訪れることができた。
松野町というのは広大な町域を占めているが、町役場が松丸に置かれているために、この集落が代表格のようになっているらしい。
司馬さんが「松丸」と記しているように、この町は「松丸町」と「吉野村」が合併して「松野町」となった。
土佐との国境に位置し、かつてはこの町が土佐西部に商品を送り出していた。山の中の小さな町という印象があるが、歴史を感じさせる建物があり、かつての殷賑が想像できる。
この町は俳人・芝不器男の出身地でもある。商業の一大中心地であり、それに伴い文化も高かったことがうかがわれる。
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| 松野町の風景(松丸街道) | ||
松野町を訪れた後、四万十川源流を訪ねた。このあたりには有名な沈下橋も幾つかかかっている。欄干がなく、洪水のときにも流されない構造になっている。橋を渡ってみる。道幅は狭い。橋のたもとに注意書きがあった。生活道路ということで、地元車優先ということ。そして、橋の上で歩行者が車と離合するときは、歩行者は橋の端で止まって、車が通り過ぎるのを待つように、と書いてあった。この道幅ではそれでも大変だろうと思ったが、地元の方は慣れているのかも知れない。
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| 日本最後の清流・四万十川 | 沈下橋を渡る管理人(小さく写ってます)*撮影・提供、タックさん |
7.司馬遼太郎と宇和島
良く知られていることではあるが、宇和島は長崎と並んで司馬さんが最も愛した町だといわれる。かつて地元の新聞の正月版に寄稿したこともある。司馬さんには稀なことで「他ならぬ宇和島だから」ということだったらしい。
『街道をゆく』は日本各地を訪れているが、司馬さんの筆には夫々微妙な温度差があるように思う。私の主観だが、司馬さんが好きなのは、旧藩名でいうと、近江、土佐、薩摩、伊予あたりだと思う。さらに奥州には憧れのような気持ちが感じられる。特に岩手(=南部)には好意的ではないか。逆に第二次大戦以前から暴走した陸軍の源である長州にはやや手厳しい(大村益次郎には好意的で、吉田松陰についても敬意は払っているが、山縣有朋や伊藤博文を嫌っていたという意味で)。
近江はその文化の高さ、センスの良さを愛している。土佐は竜馬や檮原の郷士たちに代表される自由と平等への志向。薩摩は現実認識の高さ加え、海音寺潮五郎氏へのオマージュが含まれるのではないか。
それでは何故伊予、とりわけ南伊予が好きなのか、というと、一つにはのびやかで温暖な風土と気質を愛されたのではないかと思う。
小説『花神』では興味深い記述が見られる。
かれ(蔵六)の運命を一変させたのは、伊予の宇和島藩である。十万石の小藩だが、仙台からここへ移ってきた江戸初期いらい、民治がよく、学問がさかんで、江戸期の天下を分治していた二百数十の諸藩の優劣でいうと、たとえば時計のような、精密機械の印象をもった藩である。その規模と教育水準の高さの点で似た藩をいえば越後 (新潟県)長岡藩などがそうであろう。しかし長岡藩は三河以来の戦闘的な土俗がのこっていてやや粗豪のにおいがあるが、宇和島藩は場所がら、南伊予の温暖な気候風土の影響をたっぷりうけて、士も農もここほどおだやかなところは、ほかに類がない。
司馬さんはまず『峠』の舞台である長岡を上げているが、風土の違いについて、「温暖な気候風土をたっぷりうけて、士も農もここほどおだやかなところは、ほかに類がない」と記している。まさにこの点は、『南伊予・西土佐の道』を通じて感じられる雰囲気なのだ。それだからこそ私も南伊予に興味を持ったわけだ。
蔵六にとってすでに宇和島は第二の故郷のような存在になっており、かれの想念のなかでのあのきらびやかな十万石の城下は、自然と人情がうつくしいばかりでなく、江戸よりもずっと人材に富んだ町であるようにおもっていた。藩主の伊達宗城、家老の松根図書それに二宮敬作や大野昌三郎などかれが接したひとびとはいずれも当代一流の人物であった。提灯張りかえの職人の身で蒸気機間をつくった嘉蔵などはもしヨーロッパにうまれれば一流の科学者になっていたにちがいない。ただ一様にいえることは、どのひとびともひと前に張り出して自分を誇示するようなことをせず、それがために天下に知られずにおわっているひとが多い。二宮敬作などはどうみても日本一の外科医であった。それであるのに敬作は宇和島城下にすら住まず、卯之町という小さな町で漁民や百姓の腫物を切って暮らしている。
(ああいう土地は日本にいくつかあるかもしれない。津軽の弘前もそうかもしれず、盛岡、西では石見の津和野、九州では佐賀などがそうだときいているが、宇和島はそれらよりも町の規模は小さく、外界から山をもって遮断されているためその地名すら人に知られることがすくない。さらには世間へのさばってゆくという気風にとぼしいため、いよいよ知られない)
さらに弘前、盛岡、津和野、佐賀等が文化が高い土地として挙げあられている。
司馬さんは、大都市圏から離れて、古くからの文化を持つ小都会が好きだったように思う。檮原もそうだが、「独立した小天地」「桃源郷」、である。
しかしながら、宇和島が最愛の街になったのは、人々が「有能」ではあるが、「前に張り出して自分を誇示するようなことをしない」からではないか。前述の宇和島の新聞への寄稿の主題は「古風な都会人」だった。司馬さんは伝統を持ち、その文化の中で形造られた人々を愛したのではないだろうか。
司馬さんが常宿にしていた「木屋旅館」 今は営業していないが、建物は健在
8.宇和島の想い出〜コクリコ〜
今回の宇和島レポートでは、「城下町宇和島から」の管理人、タックさんに大変お世話になった。タックさんの車に乗せてもらい、檮原、日吉村、松野町と連れていっていただいた。タックさんが一生懸命運転する脇で、私はのんきに景色などながめて、時に居眠りして、誠にタックさんに甘えっぱなしだった。
檮原方面に出かける前日、タックさんと初めてお目にかかった。そのときのタックさんの言葉が忘れられない。
「若い方なのでびっくりしました」
実はタックさんとはメールで何度かやりとりしていて、獅子文六の『てんやわんや』や昔の宇和島のことなど、レトロな話題ばかりだったので、幻惑させてしまったようだ。
その後、お食事ということで、タックさん行き付けのお店に連れていっていただいた。「コクリコ」という喫茶店。
西欧の洋館を思わせ、天井が高く、店内には適度に緑が配置され、まことにセンスが良い。宇和島でもパスタが美味しいというお店だ。
ママさんのお薦めの「茄子のペペロンチーノ」をビールと共にいただく。これが美味い! しっかりした味付けで、ビールもまた美味い。本当はもう一皿頼みたかったところだが、さすがに初対面のタックさんの前では恥ずかしく、自粛したが、今思えば、食べておけば良かった・・・実は私は食いしん坊でもある。
「コクリコ」は宇和島市街の東南、西江禅寺や等覚寺に近い。愛宕山や大超寺奥への道の途中でもある。史跡めぐりの一休みに、ビールとパスタを。
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| 夜のコクリコ | 店の内部(ビールは管理人が飲みました(^^ゞ) |
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