『司馬遼太郎を歩く』
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『街道をゆく−南伊予・西土佐の道/梼原街道』
伊予吉田の風景 
宇和島の風景(上)(中)(下)


街道をゆく-南伊予・西土佐の道-
宇和島の風景(中)
目 次
1.和霊神社と山家清兵衛
2.愛宕山
3.神田川原
4.天赦園
5.土居通夫と『花屋町の襲撃』
6.松丸街道
7.司馬遼太郎と宇和島
8.宇和島の思い出〜コクリコ〜

宇和島中心街

2.愛宕山

大超寺奥の一高地が愛宕山で、山上に展望台がある。
上ってみると、まことに気分がいい。
海は青い鋼のように光り、島々や岬の緑が海面を庭園のように組みあげている。
宇和島港の港外にあり九島の姿が、いつ見てもいい。ゆったりと緑を盛り上げて優美といえるほどの姿だが、外海の風浪を身一つでふせいでいるあたり、なにかけなげで、一個の人格を感じさせる。
愛宕山展望台から見た宇和島市街
平成15年、9月10日、愛宕山展望台に上ってみた。まだ残暑が厳しく、しかも雨が降って湿度が高い。歩くには最悪の気候だった。展望台からの宇和島の姿も今ひとつ明るさが感じられない。やはり、晴れた日に訪れたかったと思う。
初めて宇和島を訪れたとき、(平成8年の3月)は、暖かい日で、散歩する人も互いに挨拶を交わし、まことにほのぼのした風景だった。またいつの日か宇和島を訪れ、晴れた日の風景を撮影したいと思う。

3.神田川原

神田川は川幅は細く、川床は深い。古くから両岸に石垣を築きあげて堅牢に護岸されている。この川ぞいの町並を町では神田川原と通称しているのだが、いたるところに武家屋敷がのこっており、どの屋敷もよく手入れされていて、吹きわたってゆく風までが清らかな感じがする。
私は十数年前から、この町にくるたびに神田川原を歩いた。
真夏の昼下がりなど、木槿(むくげ)の薄手な花がしきりに咲いて、気だるいほどの気分になる。
川の堤の内側をかためた石垣の古びもよく、石垣のあいだからのぞいているさまざまな潅木や石垣の上の柳やササメダケの藪など、都市という造形のなかで、植物というものがこれほど詩をつくり出している一郭もめずらしい。
神田川の風景は、司馬さんの長編小説『花神』でも、イネの目を通じて印象深く綴られている。
だが、これは、ある程度知られていることかとは思うが、残念ながら神田川原は、現在はその大部分がコンクリートで固められてしまっている。司馬さんも訪れるたびに神田川原の風景が変化していくのに、辛そうにしていらしたらしい。
かろうじて上流の一角に石垣が残っている。司馬さんが見た風景に近い風景ということで、写真を掲載した。
神田川原
勧進橋から川下になると、この界隈らしさがいよいよ濃くなるようである。
対岸に、三角の屋敷があり、自然、三角にみえるあたりがある。シーボルトの遺児のイネが一時この三角屋敷に仮寓し、おなじく神田川原にあった村田蔵六の寓居までかよっていた。
このあたりに御通橋という橋がある。
藩父(すでに隠居していた)伊達宗城が、架けさせたという。
イネについては、すでにふれた。卯之町の二宮敬作があずかり、まずオランダ語をおぼえさせるべく、当時宇和島に招聘されていた周防の百姓医村田蔵六にあずけた。
「その教えぶりを見たい」
といって、伊達宗城は城から出てきては毎日のように蔵六の寓居にかよったという。勧進橋へまわるには遠まわりなので、ここに粗末な橋をかけさせた。隠居の身とはいえ前藩主が一介の士の家へ来るなどふつうはありえない。このため微行してきたのだが、それにしても橋までかけさせて授業を見にくるというのは、尋常一様なことではない。
伊達宗城は、イネにも強い関心をもった。あるいは性的な関心もあったかもしれないが、それは当の宗城にきいてみねばわからない。ただかれはヨーロッパを学問のかたちにして日本に持ち込んでくれたシーボルトを深く想い、そういう思想のなかからイネを見ると、格別な感情のさざめきがあったのであろう。
御通橋も、現在はがっちりとしたコンクリートの橋になっている。確かに神田川原の風景は変わったが、このあたりは往時の面影が残っているような気がする。この道をこの橋を、幕末四賢候の一人、伊達宗城が通い、村田蔵六(大村益次郎)やイネが歩いたかと思うと、私自身にも感情のさざめきがおこるような気がする。
御通橋(上流から下流方面を撮影) 大村益次郎住居跡方面を撮影
山家清兵衛が司馬さんの好きな宇和島を形成した原点なら、神田川原は、司馬さんが好きな宇和島の風景の原点なのかも知れない。
村田蔵六の住居跡は、今は建て替えられて、普通の住宅になっている。ただ、案内版だけが掲げられていて、蔵六がこの地に住んでいたことを示している。
大村益次郎住居跡(左手前の建物の敷地)
樺先砲台跡(大村益次郎=村田蔵六が設計した)

4.天赦園

神田川の河口近くと、城山の間あたりに天赦園がある。
伊達宗城の養父、宗紀が開いて庭園だ。(宗城は旗本山口家から伊達家に養子に入った)
元々浜離宮があった土地で、海に面していたが、今は埋め立てが進み、海は少し遠ざかっている。
伊達宗紀は、大名にしては珍しく殖産家、財政家であり、櫨蝋を藩の専売制にしたり、藩立の融通会所を設立して商業を振興した。幕末の宗城の活躍は宗紀の事業の上に成り立っているのではないか。
その宗紀は幕末にこの天赦園を作り、明治23年まで生きた。
宗紀は幕末の文久三年(1863)においてすでに七十を越えていた。
「いままで質素倹約でやってきたが、もう多少の贅沢をしても天が赦してくれるのではないか」
といって、面積一万二七七八・〇九平方メートルという周遊式の大庭園を造り、そこに住んだ。
天赦園がそれである。
伊達家の祖の政宗が、江戸期に晩年をむかえ、少壮のころは戦場ですごしたが、生き残ってこのように老躯を保っているのは天の赦すところである、大いに楽しむべきではないか、という意味の詩をつくった。
  馬上少年過グ
  世平カニシテ白髪多シ
  残躯天ノ赦ス所
  楽シマズシテ是ヲ如何セン
宗紀はこの詩からとって、天赦園とした。
天赦園
天赦園は意外に小さな庭園だと感じた。だが、園内はきれいに整備され、宇和島らしい心地良さを感じさせる。


辰野川の上流の等覚寺は伊達家の菩提寺。藩祖・伊達秀宗公や、幕末の伊達宗城公の墓がある。
等覚寺門 伊達宗城公(右)と夫人(左)の墓 初代藩主・秀宗公墓


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