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『司馬遼太郎を歩く』
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『街道をゆく−南伊予・西土佐の道/梼原街道』
伊予吉田の風景 
宇和島の風景(上)(中)(下)


街道をゆく-南伊予・西土佐の道-
宇和島の風景(上)

平成15年10月19日UP
(取材日:平成15年9月8〜10日)

司馬さんが愛した街・宇和島。
山家清兵衛と和霊神社に始まり、小説『花神』でも印象的に描かれる神田川原、
時が止まったかのような松丸街道、日本最後の清流・四万十川を訪れました。
目 次
1.和霊神社と山家清兵衛
2.愛宕山
3.神田川原
4.天赦園
5.土居通夫と『花屋町の襲撃』
6.松丸街道
7.司馬遼太郎と宇和島
8.宇和島の思い出〜コクリコ〜

宇和島〜松野町〜西土佐村略図 宇和島中心街
宇和島は、ごく最近まで、日本国の街道のゆきつく果てといわれていた。
いまでも国鉄のレールは宇和島駅で終わっている。昭和30年代にはじめて宇和島へ行ったとき、駅の構内のむこうで線路が果てているのを見て、つよい感動を持った。日本中の鉄道がなんらかの形で循環しているものだとおもっていただけに、宇和島という町は、鉄道文明の上からみても際涯であることを感じたのである。
宇和島駅前・闘牛の像 宇和島で最初に走った蒸気機関車(復元)
「鉄道唱歌」の作詞者・大和田建樹も宇和島出身

1.和霊神社と山家清兵衛

司馬さんは宇和島について、山家清兵衛のことから書いている。
宇和島は長らく中世のまどろみの中にあった。戦国時代、西園寺氏という公家が京から南伊予に落ち、この地方の支配者となっていた。公家をありがたがって、支配者としていただくあたり、未だに古代の感覚が残っていたのかも知れない。
さらに時代は下り、秀吉の天下統一から江戸時代へと向かう。秀吉の時代、宇和島の地に送り込まれたのは戸田勝隆だったが、戸田は暴虐といっても良い態度で領民にのぞみ、自分に逆らう者は容赦なく殺戮した。司馬さんは「南伊予・宇和島にやってきた『近世』というのは殺戮者の顔を持ち、その事業はひたすらに人を殺すことであった」と書いている。
戸田は朝鮮侵略に従軍し、かの地で病没し。その治世は七年間だったが、民力の疲弊は凄まじかった。その後、藤堂高虎が五年間領主となって、多少回復するが、その後の富田信高は、戸田と似たようなもので、在封五年で改易になる。藤堂高虎が一年足らず、預かりの形で管理し、その後に伊達秀宗が入る。
つまりは、伊達氏が入るまでの18年間、宇和島は戸田・富田の悪政(計12年間)で疲弊し、どうにもならなくなると、藤堂高虎が尻拭いをしていた(計6年間)感がある。
伊達政宗の長子・秀宗は、秀吉の元で育った。そんなこともあって、政宗は家康に慮り、秀宗を嫡子にしなかった。が、それでは秀宗が不憫だと思ったのだろう。家康に運動して秀宗のために新領地・宇和島十万石を獲得した。
前述のように、当時の宇和島は疲弊しきっていたから、よほど上手く建て直さなければ、改易没収の恐れもある。このあたり、家康や幕府の官僚と伊達政宗の微妙な関係がうかがわれるようでもある。
とにかく、政宗は宇和島藩を建て直すために、六万両の大金を貸し出し、さらに山家清兵衛という優れた人物を付けた。
山家清兵衛は、仙台伊達家で算用頭にも起用されており、いかに政宗が信頼していたか、ということがうかがわれる。司馬さんは清兵衛の人物像を「剛直で無私な人柄である上に、この当時としてはめずらしく理財の才があった」と書いている。
山家清兵衛は、農民に対する税率を大幅に下げ、納める力のない者にはしばしば免除した。封建時代の治世者としては、まことに例外的で、農民にとっては神のような存在であろう。
さらに代官・庄屋という、民に直接接する人物に対しては横目を付け、非道な行いがないか監視させた。また官僚の心構えは、清兵衛自が訓練したという。ある意味では、現代の日本の政治よりも遥かに優れているのではないか。
わずか六年の治績で、いまなお神(宇和島市和霊町)として、市中だけでなく旧宇和島藩領ぜんたいから大きな崇敬をうけているのは多少の凄みを感じさせる。いかにかれが当時、民政者として疲弊の極にあった農民たちからありがたがられたかをこの一事で想像できるが、逆に前時代の悪政のすさまじさも察することができる。日本史上の民政家で山家清兵衛ほど、一地域でのことながら、深く尊崇されている例は絶無なのではないか。
このように、民からは尊敬された山家清兵衛だったが、家老達からはそうではなかった。
宇和島藩は、政宗から六万両の借金があった。これを返済するのに、清兵衛は三万石相当を、政宗一大限りという条件付きで献上しようとした。それについては、年貢を上げることなく、士分の者の禄高に応じて負担させようとした。
民に負担をかけず、行政体を縮小して、「小さな行政府」を目指したというところだろうか。
この政策は、士分の者たち、特に家老職からは不平の声が出て、秀宗に讒訴する声も多かった。
ある夏の日、山家清兵衛と家族は殺害される。極めて残忍な殺され方であり、伊達秀宗の命令だった可能性もある。


領民たちは、清兵衛の死後も墓参りを欠かさなかった。秀宗は領民たちの清兵衛を敬慕する気持ちを恐れ、たたりを恐れたのかも知れない。十二年経って、清兵衛を神として正規の神社、和霊神社を建てた。
和霊神社入口(須賀川越しに眺める) 和霊神社本殿
清兵衛という、領民のために政治をした江戸初期ではめずらしいとさえいえる行政家が一藩の中心的な神になってしまったために、この藩の行政体質がその後ひきしまったといえるかもしれず、いずれにしても宇和島のその後の藩政史をうかがう上で、この不可思議な存在はそれを外しては考えにくい。
現代の日本に山家清兵衛のような民政家は存在するのであろうか。
司馬さんは、和霊神社と山家清兵衛のことを、宇和島・吉田の部分の冒頭に記述している。
一つには、宇和島藩成立当時の状況を端的に示す事柄であるということだろう。
しかしながら、山家清兵衛という人物を、司馬さんが愛した宇和島という町の原点として捉えているような気もする。彼が治めるまで、宇和島という土地は、悪政者によって疲弊し、殺戮を受けた土地なのだ。その悲しい土地が、江戸期を通じて豊かで文化が高く、知的好奇心が強く、どこか真面目さを持っている土地に変貌した。その転換点が伊達氏の入部であり、山家清兵衛なのではないかと思う。
清兵衛を通じて良き伊達氏の藩政は当時としては優れた良心的なものになり、それは民力の向上に繋がり、幕末には優れた人物を輩出し、高い文化を持った土地になっていた、ということなのではないか。
そして、山家清兵衛の民政家としてのあり方に、強く惹かれるものがあったのだろう。
丸の内の和霊神社(山家清兵衛屋敷跡) 丸の内和霊神社・本殿
宇和島にはもう一つの和霊神社がある城山のすぐ下(東南側の角)


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