[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」


『司馬遼太郎を歩く』について(INDEX)へ戻る

 

司馬遼太郎と新田次郎

 平成6年に亡くなった今も国民的作家と称される司馬遼太郎(1923〜1996)。そして昭和40年代〜55年に亡くなるまで圧倒的な人気を誇った新田次郎。ともに私が好きな作家だが、若き日の福田定一記者(司馬遼太郎)は気象庁時代の藤原寛人氏(新田次郎)に一度だけ会っている。そのときの様子綴った司馬氏のエッセイ(「本の話−新田次郎氏のことども−」文藝春秋編『司馬遼太郎の世界』所収)の筆致を追いながら、二人の作家を少しだけ考えてみた。

 私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。(中略)
 その連載小説のお守りも、私の仕事の一つだった。もっとも、どなたに執筆をたのむなどという高度なことには、末輩の私はあずからなかった。
 ただ一度だけそういう会議に出席した。たまたま自分の案が通って、東京へ出張したことがある。なんだか晴れやかな気分だった。

ここで若き日の司馬さんが依頼した相手こそが新田次郎。結果は新田さんの時間不足ということで断られるが、このあたりに記述に司馬さんの新田さんをどのように見ているかが表われている。

 相手は、藤原寛人という名の気象庁の課長さんで、気象官としてのその前歴半生が、知力と筋力と不抜な気力に満ちたものであることを、私はよく承知していた。
 新田次郎さん(1912〜80)のことである。
 私より十一歳上で昭和初期学校を出、早くに富士山頂の測候にも従事し、山岳気象の第一人者であることも、私は知っていた。(中略)
 新田さんご自身は、私が訪ねてゆく前半、白馬山頂に五〇貫もの花崗岩の風景指示盤を運ぶ強力を主人公にした『強力伝』という作品で直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の小説家の歴史における異変だと思っていた。
 新田さんの『強力伝』は元々昭和26年の「サンデー毎日」の懸賞小説の受賞作であり、30年に同作で直木賞を受賞した。一方司馬さんは同じ昭和30年に『ペルシャの幻術師』で講談倶楽部賞を受賞している。(『梟の城』で直木賞を受賞するのは昭和35年、『竜馬が行く』の連載を始めたのが昭和37年))
 
司馬さんが原稿を依頼に行ったのは31年頃と考えられる。司馬遼太郎と新田次郎−−当時の新田さんは山岳小説(新田さん自身はこの呼称を嫌がっていたようだが)を書いており、一方の司馬さんは幻術小説を書いていた。後年歴史小説という同ジャンルで活躍したこともあり、その範囲では二人の作家が極端にかけ離れた存在とは思えないが、この時点ではその小説スタイルはかなり異なっていたわけだ。
 司馬さんが、リアルな作風を持つ新田さんに連載を依頼しに行った・・・。このことは司馬さんの後の作家人生を考える上でのヒントにもなるような気がする。
 
そして「知力と筋力と不抜な気力に満ちた」「筋骨と精神力をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の小説家の歴史における異変」という部分は、司馬さんの新田さんへの並々ならぬ好意、敬意がこもっているのではないかと思う。
 それと共に、司馬さんのこの表現の中には彼自身の一つの方向性が示されているのではないだろうか。
 梅原猛氏は、「司馬遼太郎と国民文学の再生」(『司馬遼太郎の世界』所収)の中で、司馬遼太郎を「国民作家」であると規定し、司馬文学と純文学の微妙な関係に言及している。司馬は直木賞作家である。直木賞は大衆文学であって、純文学ではない。そしてこう続ける「純文学の伝統を守る作家や評論家にとっては司馬遼太郎という作家はまことに困った存在なのである。その小説を大衆小説と見下げることもできないし、さればといってその小説を認めれば、純文学の孤塁が危うくなるのである。」
 そして日本の純文学というものが、自然主義文学の影響下に生まれ、個人を対象にした私小説を軸にして展開されてきたということは、大雑把ではるが、的外れともいえないだろう。
 司馬遼太郎が自らの小説を純文学と対立した存在であると、明言したことはないと思うし、そういうそぶりさえも見せたことはないのではないかと思う。だが、司馬さんの新田さんに対する好意的な表現と、梅原氏の文章を突き合わせると、司馬さんが従来の伝統的な私小説的純文学とは異なる志向を持ち、スタイルを確立しようとしていたと言えるのではないだろうか。
 梅原氏の文章の中に、もう一つ興味深い記述がある。
「司馬遼太郎によって忘却のなかから掘り起こされた人物は、いずれも合理主義者である。彼らはほとんど神を信じず、宗教や哲学の如き空理空論を好まない。彼らが好きなのは実務である。彼らは実務を丹念にこなすことによって、実に多くのことをなすことができたのである。司馬遼太郎が大変好きな人間に大村益次郎という人間がある。・・・・・・」
「司馬はいかなる宗教はもちろん、いかなる道徳すら信じていないようにみえるが、信じているものが一つある。それは合理主義である。」
 
さらに、司馬さんが正岡子規に傾倒したのも同じ方向性に思われる。現実をありのままに描写するのが写生の精神であり、それは現実を思想や理論で歪曲することなく、そのまま認識するという合理性につながる。
 司馬さんが技術者が好きだったというのは周知の事実だろう。新田次郎(藤原寛人)という人物は、気象庁時代に黙々と実務に励み、富士山頂のレーダードーム建設という偉業を成し遂げた。
 そして、私の印象では、新田さんの文章とは司馬さんのイメージする写生の精神に非常に近いものだったのではないかと思う。
 とすれば、司馬遼太郎にとって新田次郎とは、個性やスタイルは異なるが、合理主義というベクトルの中では親近感を持ちうる作家であるし、その人間そのものも司馬の好きな人物像に非常に近かったのではないだろか。
 『ペルシャの幻術師』を書き、新田次郎に連載を依頼に行ったころの司馬遼太郎は、まだ後の合理主義的な作品を書いていない。だが、自らの進むべき新しい方向を新田次郎の作品の中に感じていたのではないか。

 話の方向が逸れたが、再び「本の話−新田次郎氏のことども−」に戻り、司馬さんが新田さんに連載を断られた場面を引用してみよう。
 余計な話はなかった。
 なぜ自分はひきうけられないかという理由を必要にして十分に話された。
 数学の講義のようでもあった。一年は三百六十五日しかないというのが、聴き手の私の唯一の数学知識である。新田さんはそれを精密に区分した。
 そのうちの睡眠時間と勤務時間をさしひいてみせたうえで、その残った時間が、創作の執筆の時間である、という。ところがその時間に、現在予定している仕事の必要時間を入れると、ほぼ詰まる。
 伺いながら、すこし端数が残るようにもおもわれた。そのことをかぼそく指摘すると、
 「それはですね」
 新田さんはかすかに微笑された。
 「私は、若いころから、年に平均して四、五回は風邪をひきます。ひくと、一回に四、五日は仕事に手をつけられない。そのために予備としてそれだけの時間を控えておく必要があります」
 体系美を感じさせるような断り方で、私としてはむろんひきさがり、店先の路上で別れたあと、どいういうわけか、「詩三百、思ヒ邪ナシ」ということばが、脳裏にうかんだ。
 小説家であるとともに科学者でもある新田さんらしい話であり、堅牢な構成を持つという新田文学の背景を感じさせる話でもある。
 
 ふと思いついた話だが、私は宇和島への旅から帰った後、新田さんの小説を読んでいた。司馬さんと宇和島といえば、『花神』が思い浮かぶ。主人公は幕末の蘭学者・大村益次郎。大村益次郎は非常に合理的な考え方をする人物でもあり、技術者が好きな司馬さんの思いが結実しているように思う。これは、私の根拠のない想像だが、もしかしたら、司馬さんの技術者好きに新田さんは影響を及ぼしているのかも知れない。さらに、私の中では、司馬さんの大村益次郎像と新田次郎さんの印象は、微妙に重なるような気がする。

 気象庁という役所に勤めながら小説を書いていた新田さん。その執筆ぶりは明治の文豪・森鴎外を思い出させる。とすれば、新聞社出身の司馬さんは夏目漱石。二人は昭和の漱石と鴎外だった、というのは私の強すぎる想いこみだろうか。

『司馬遼太郎を歩く』について(INDEX)へ戻る