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| 『司馬遼太郎を歩く』取材レポート 『重庵の転々』 |
| 国安の郷 |
『重庵の転々』の舞台になる伊予吉田町。宇和島市のすぐ北に位置し、小さいとはいえ旧・城下町。『街道をゆく』にも登場します。
JR伊予吉田駅前で、地元の歴史を研究されている秋田通子学芸員とおちあいます。秋田学芸員がお勤めの「国安の郷」へ。車で五分ほど郊外へ向かうと、山間の中に白壁の塀が見えてきます。今日は月曜日で休館日ですが、今回取材ということで、特別に見学させていただきました。館長さんも一緒に案内してくださいます。
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| 国安の郷(左の建物は法華津屋) | 吉田・藩政時代の町割 |
”国安の郷”の目玉はなんと行っても法華津屋が移築・復元されていること。司馬遼太郎の『街道をゆく−南伊予・西土佐の道−』にも出てくる豪商です。藩の商いを一手に握り、一揆の標的にされます。建物は豪商の店らしく、重厚な造り。普通商家というと、間口が狭く、奥行きが深いというイメージがありますが、法華津屋はかなり広い間口を持っているのが印象的でした。『街道をゆく』のファンなら、一度は見てみたい建物です。
国安の郷にはこの他にも祭りの資料を展示した建物、武家屋敷、農家、漁師の家などがあり、じっくりと見るに足る施設でした。吉田は観光地としてはあまり知られていませんが、宇和島近辺に行ったら、訪れてみる価値有りです。
”八人様”の墓
司馬遼太郎の小説『重庵の転々』では、土佐から流れてきた医師、山田重庵が藩主・伊達宗純に取りたてられ、家老にまでなります(山田仲左衛門)。その異常な出世が御家騒動につながり、御小人組の八人が仲左衛門暗殺を計画、未遂に終ります。八人は切腹を命ぜられ、仲佐衛門は仙台に追放に。
吉田にはこの八人を”八人様”と称し、供養碑もあります。地元の老人会の方々が今も欠かさず手入れをされています。家々の間を抜け、小高い丘に上ると供養碑があります。老人会の方たちは焚き火をして迎えてくださいました。
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| 伊予吉田・大工町付近 | 八人様の墓 | 秋田学芸員(右端)よりお話しをうかがう |
司馬遼太郎は重庵を経世の才があり、戦国時代に生まれれば相当の活躍ができた人物としています。しかし世評に疎い面があり、結局それが、追放につながってしまうわけで、”能力がありながらも時流に疎く、運命に翻弄された”という書き方をしています。どちらかというと好意的に描いている感があります。
しかし吉田町では宗純の寵にまかせて、藩政を専横した人物として見られており、”八人様”が今も祭られているわけです。地元の解釈とはまた違った視点で見たのが、司馬遼太郎の上手いところだったのかもしれません。吉田藩では仙台以来の家臣団が大きな力を持っており、いた。そこに山田重庵(実際には”重庵”ではなく”文庵”)が登場します。山田騒動は、初代宗純が登用した山田仲左衛門(忠左衛門ともある)の専横に対する、伊達家旧来の老臣たちの反感、すなわち新旧の勢力争い、譜代の直臣対出頭人の抗争、というのが実際のようです。
八烈士供養碑の丘から降ります。吉田町は江戸時代初期、藩の成立と共にリアス式海岸の入江に人工的に造成された計画都市。河川が巧みに引き込まれ、堀の役割を果たしています。四百年を経て、当時の町割がほぼそのまま残っているという点では興味深い都市空間です。今回は時間がなかったのですが、いつか再び訪れ、ゆっくりと歩いてみたいと思いました。
秋田さんからは、吉田の歴史を詳しくうかがいました。取材に備えて、かなり準備をしてくださっていたようです。知的好奇心が強く、分析力があり、このような方が吉田でこつこつと研究をされているということも、とても貴重なことだと思いました。
夕暮れ時になり宇和島へ戻ります。秋田さんのお話では、吉田には司馬遼太郎が訪れた喫茶店があるということでした。重里さんも取材に熱中し、私もすっかり忘れていました。後から重里さんと思い出して、残念!
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