『司馬遼太郎を歩く』
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『歳月』取材レポート
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『司馬遼太郎を歩く』取材レポート
『歳月』

7.江藤茂國氏を訪ねて

今回の取材のハイライトの一つは、江藤新平の曾孫にあたる、江藤茂國氏を訪ねたことだった。
新平の跡を次いだのは次男の松次郎。その長男が冬雄氏。茂國氏はその御長男にあたられる。
江藤茂國氏は昭和6年生まれ。痩身の穏やかな紳士で、重里記者の質問にも淡々と無駄なく要点を答えられる。
重里記者の取材を通じて、自分なりに印象に残ったことを、”子孫(=茂國氏)からみた江藤新平”、”『歳月』と江藤新平”の二つの面からまとめてみた。

江藤茂國氏(新平卿の曾孫にあたられます)

(1)子孫からみた江藤新平

江藤新平は佐賀の乱(現在地元では”佐賀の役”と呼ばれることが多い)を起こし、政府軍に敗れ刑死した。いわば”賊”である。(後に名誉は回復された) だが、初代司法卿として短期間だが輝かしい業績をあげた。維新に活躍した人物の中では、欧米の近代思想を最も良く理解していた一人であり、そして一面佐賀を背負って立ち、佐賀に殉じた人物でもある。

茂國氏にとって、江藤新平はどのような存在なのだろうか? それは”偉大な祖先”と”悲運の祖先”という面から語ることができるのではないか? また、近しい子孫である茂國氏が感じる江藤新平像を知ることは、その興味深い人物像をうかがうことにもなるのではないか?

偉大な祖先

江藤新平の偉大さは卓越した行政能力に見られる。近代日本の基礎は江藤新平にその多くを負っているということは、最早常識だろう。
維新に活躍した志士達の多くは古い体制を壊すことはできたが、新しい国家を構築するということは苦手だった。その中にあって、佐賀藩出身の人物、特に江藤新平はずば抜けた頭脳と行動力を持っていた。そのため江藤に仕事が集中した観があった。
その業績に関しては、大久保利通らが外遊するという短期間に急いで仕上げなければならないという面もあったが、江藤新平としてはやりたいことはできたようだった。

そしてもう一つの偉大さとは、その清潔さと高度な識見ではないかと思う。『歳月』でもしばしば見られるように、江藤新平は不正許すことのできない性格だった。不正を行った井上馨や山県有朋を徹底的に追求し、失脚寸前にまで追い込んだ。
不正を許さない清潔さは、また公正さにもつながる。当時としては画期的なフランス流の民権思想を理解し、人民の権利を保護するという感覚を持っていたということは、驚くべきことだろう。江藤新平の人権意識は100年以上も進んでいたのではないかと思う。

茂國氏は、新平卿がもう少し長く生きていたら、長州閥を抑え後の軍閥もできなかったのではないかと話され、その人権意識については、100年早く生まれ過ぎたのではないか、と話されていた。

悲運の祖先

茂國氏の父・冬雄氏はしばしば「勝てば官軍、負ければ賊」と言っていたそうだ。
江藤新平は征韓論に敗れ、下野し佐賀に戻る。不平士族に担がれた形になり佐賀の乱で政府軍に敗れた。
初代司法卿の栄誉に輝きながら悲運にみまわれたことは、子孫の方にとっては言い表すことのできぬ痛恨事であったに違いない。新平卿は順調に仕事を続けられれば、押しも押されぬ明治の元勲になっていたはずだ。

取材の中で、重里記者が「大久保利通のことをどう思われますか」という趣旨の質問をした。それに対して茂國氏は「大久保という名を聞いただけで怒りが込み上げてくる……」と答えられた。
江藤新平は佐賀の乱で破れた後、明かに違法ともいえる強引な裁判にかけられ、刑死。”鳩首”(=さらし首)という極めて無残な刑に処せられる。さらにそれは写真に撮られ、全国に廻された。すべては大久保利通が仕組んだことだった。

大久保は江藤新平との論争ではいつも負けていたそうだ。大久保にすれば江藤は憎く、生かしておいては危険な存在だった。
茂國氏は「同僚として仕事をした間柄であったのに、そこまでしなければならいのか(!)」といわれる。
お顔が心なしか少し歪まれているようにも見える。茂國氏はとても穏やかで優しい感じの方であり、恐らく普段はこのような雰囲気は表に出されないのではないか。余程の怒りが込められているのだ。
重里記者も私も、江藤新平も大久保ももはや歴史上の人物という感覚で捉えていたが、茂國氏の心の中では、”過去”の事にはなっていない。血肉を分けた肉親なのだ。歴史は生き続けているいるのだと思った。

茂國氏にとって、江藤新平は偉大な祖先であり、悲運を背負った祖先であり、この二つの像は重なりあい、佐賀という風土の中で強い存在感を放つ。佐賀で育ち、現在も生活される茂國氏にとっては、私達が通常感じる”曾祖父””祖先”というよりも、ずっと強烈で意識せざるを得ない存在、それゆえ身近に感じておられるような気がした。
茂國氏は江藤新平のことを”新平卿”と呼ばれる。そんなことからも敬愛しておられる雰囲気がうかがわれた。

(2)『歳月』と江藤新平の記録

『歳月』は昭和43年に著された。司馬遼太郎も佐賀の江藤家を三回訪れ、先代の冬雄氏に取材している。(その頃茂國氏は東京でお勤めだったそうだ)
江藤家には『歳月』の初版本がある。その初版本には冬雄氏が所々赤鉛筆で「これは疑わしい」「間違っている」「作り話」などと”注釈”を施されている。小説と史実とは異なるのが常だが、冬雄氏は丹念に読まれたようだ。
『歳月』が出版されて、江藤新平の功績や、当時の佐賀の乱のことが知られ、正当に評価されるようになった。

冬雄氏ご自身も「子孫に江藤新平像を伝えねば」という思いがあったそうで、ノートに江藤新平の伝記を書かれていた。それは『江藤”南伯”正伝』と題され13冊にも及ぶ。後に佐賀新聞社から刊行された。『歳月』では江藤新平が生まれた当時の江藤家は非常に貧しかったとされている。それに間違いはないが、元々江藤家はかなりの土地を持った豪族であり、どちらかといえば裕福だったそうだ。貧しくなったのは新平卿の父の代らしい。冬雄氏の伝記には「(新平卿の父の時代に)土地が散逸した」と書かれていた。
直筆のノートは細かい字でびっしりと埋められている。剣道師範を勤められたという冬雄氏の几帳面なお人柄がしのばれるような気がした。

荒牧カメラマンが写真撮影のため、古文書を抱えたポーズを…とお願いすると、茂國氏は一枚の古い紙を取り出した。なんと、江藤新平から木戸考允宛てに出した書簡だ。
それに江藤新平のパスポートも拝見することができた。明治政府の要人が欧州に外遊するときに作ったもので、日本のパスポートで初めてつくられたものの一つだ。(結局江藤新平は外遊せず、残留組になったが) 木製のケースに写真が収められていて、特に文章は記載されていない。政府要人用のもの、初めて作られたものということで、現在のパスポートとはかなり意味合いも違うようだ。

茂國氏は心なしか、写真で見る江藤新平の顔立ちに良く似ていらっしゃる。神野公園の銅像が若干雰囲気が違う(?)ような気がしていただけに、茂國氏の面差しの中に新平卿の面影を見たような気がした。重里記者が「写真の新平卿に良く似ていらっしゃいますね」と話すと、茂國氏は「若い頃は(新平卿に)似ているといわれました」と微笑みながら答えられた。

取材の後、茂國氏は御親切にも、江藤家の元々の菩提寺である蓮成寺に車で案内してくださった。ここには、新平卿の両親が眠っておられる。(蓮成寺のあったあたりが、江藤家の先祖伝来の広い土地をもっていたあたりらしい)

新平卿ご両親の墓 蓮成寺にて茂國氏と重里記者
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