司馬遼太郎を歩く
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『功名が辻』取材レポート
 
郡上八幡編 掛川編 (上) (下) 高知編 

 

司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』掛川編(下)

 

3.掛川城を歩く

静岡県掛川市。約6万の人口で、緑茶の約5%を生産する、東海道の豊かな町だ。
掛川は一豊が10年に渡り領土経営を行った地。一豊には最も思い出深い土地だったのではないだろうか。
郷土史家の関七郎先生と掛川城を歩き、お話をうかがった。

(1)掛川城の歴史

掛川城は、今川氏の重臣・朝比奈氏の築城に始まる。駿河を拠点とした今川氏の遠州侵攻の拠点として建設され、当初は現在の土地ではなく、少し東の丘(現在の龍華院のあたり)だった。後、現在地に移った。


元の掛川城があった位置。現在の城の東側にある

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れた後、今川氏は甲斐の武田氏、三河の徳川氏に押され衰退。今川氏真は武田信玄の侵攻に耐えきれず、駿府(静岡市)を放棄、朝比奈氏の掛川城に拠った。
さらに掛川城もまた徳川家康に攻められ、今川氏真は篭城する。ところが、掛川城は以外にも防御が固く、結局家康は掛川城を攻め落とすことができず講和を結び、氏実は城を出ることになった。掛川城が防御に優れた地形だったことがわかる。
今川氏滅亡後は徳川氏の領地であったが、この時代は城にはそれほど手を加えられてはいなかったという。当然都市計画も行われなかったということになる。
関先生によれば、現在見られるような掛川の基礎を築いたのは山内一豊だという。本格的な兵農分離を行い、家臣団を編成、城下町と近世城郭を築いたということだ。
山内氏が高知へ移った後、掛川は東海道の宿場町としても発達し、新しい性格も持つようになった。

(2)掛川城天守復興と高知城


天守の丸への石段

天守の丸入口

掛川城は平成6年に復興された。新幹線掛川駅の開業に併せて市のシンボルが必要という考えもあったようだ。
天守の復元・復興といえば、従来鉄筋コンクリートによるものが主流だった。(僅かな例外として第二次大戦前の郡上八幡城や伊賀上野城の木造復興天守が知られる) 実質的には観光的な意味合いが大きかったと言えるが、この流れを変えたのが掛川城だった。この後福島の白河城や宮城の白石城が木造で再建される。
”兄弟城”である高知城天守を参考にして、木造で再建された。(「復元天守」と称されるには、少なくとも外観が完全に復されなければならず、なんらかの図面と外観が判明する写真又は精密な絵画が必要とされる)
掛川城は厳密な意味では復元ではないが、残っている資料から、できる限りかつての天守を再現しようとし、さらに木造で再建されたという点で、画期的な天守だった。コンクリートの外観復元天守より、よほど良心的な再建だとも思う。


天守東下側より

天守東側より遠景

山内一豊といえば、高知城だが、実は高知城は掛川城に似せて作られたという。
まず、その天守。掛川城を忘れられない一豊が、あえてその姿を模すように指示したとも言われるが、とにかく掛川への思い入れが偲ばれる逸話ではある。
関先生のお話では、高知城の天守は、本丸の面積に適合していないという。高知城天守の底面積は掛川城本丸にあてはまり、この点からも一豊が掛川城天守の構造をそのまま高知城天守に取り入れた可能性があるということだった。


太鼓櫓

天守内部

 


掛川城御殿
現存する御殿としては二条城と並び数少ない貴重な建造物
全盛期の掛川城中心部
緑の四角は櫓、赤の四角は門を表す
堀は三日月堀を除いて現在はすべて埋め立てられている

(3)地形から見た掛川と高知

関先生は、高知を訪れたとき、城を中心にした地形が掛川に良く似ていると感じられたという。平野部の中に小高い丘に城郭を築き、その前面には川が流れ、城下町が広がるという点で、規模の大小はあれ、掛川と高知には共通点がある。高知においては、大高坂山が城郭建設地として最適地だったとは思われるが、地形を利用した全体的な都市構想、という点から見ると、掛川の城下町造りが、高知にそのまま踏襲されている可能性はある。


掛川城と城下町
城と河川の位置関係は高知に似ている?

4.関七郎先生のお話

(1)『功名が辻』と掛川

一豊の人生において、掛川は大きな意味を持つ。しかしながら、『功名が辻』においてはそれほど頁が割かれていない。関七郎先生はこの点が非常に残念だという。司馬さんが掛川を良く知らなかった可能性もあるし、知っていてもあえて書かなかったのかも知れない。
一豊の掛川時代、秀吉の大名政策の一環として、その妻子は京や伏見に住んでいた。関先生のお話では、当然千代も例外ではなく、掛川には住んでいなかった。
『功名が辻』においては実質的な主人公は千代。その主人公が掛川に住んでいなければ、司馬さんも今一つクローズアップすることができなかったのではないだろうか?

(2)掛川時代の足跡から一豊を考える

『功名が辻』では山内一豊は比較的平凡な人物として描かれる。これは千代を際立たせるための司馬さんの描き方ではあるが、関先生は小説とは異なった一豊の人物像を描いている。
山内一豊は、掛川を経営した10年間で、しっかりした町造りを行い、実質的に現在の掛川の領地作り、基盤作りを行った。
それには、高度な行政力、組織力が必要だったと思われる。決して凡庸な人物ではなし得ないことで、一豊はかなり優れた行政家であり、武将だったと想像される。
さらに、関ヶ原の戦いに至るまでの期間の動向を考えても、一豊は機を見るに敏なところがあった。秀吉亡き後の天下の盟主を徳川家康と見て、その判断は揺るぐことがなかった。関ヶ原の前夜の小山評定においても、一豊は自らの領国・掛川を家康に差し出すと発言し、家康に貢献する。その結果は土佐20万石への「栄転」につながる。
千代の知恵、情報もあったとは思うが、関先生は一豊自身の判断力自体が優れていたと考えられるということだった。

5.一豊と掛川

『功名が辻』でも、その点は否定はされていないが、明確に表現されてもいない。小説ではどうしても千代の才覚が中心に描かれる。そのために一豊の業績や能力があまりクローズアップされない傾向にある。小説では凡庸で能力がないと印象付けられがちな一豊。しかし、この掛川の領土経営には千代はほとんど参加していないようだ。この時代を振りかえると、意外にも堅実で領土経営には非凡で、情報処理においても的確な判断ができた、山内一豊という人物が浮かびあがる。いかに千代が賢くとも、それだけでは戦国の世を生きぬいていくことはできなかったはずだ。
そう考えてみれば、掛川も、前任地の長浜も、石高はそれほど高いとは言えないが、交通の要所であり、重要な場所ではある。特に長浜は秀吉が治めていた土地でもある。
秀吉も歴史の表に現れる以上に、一豊の堅実さを高く評価していたのかも知れない。

取材を終えて

郡上八幡から岐阜・名古屋経由で掛川に着いたのは、午後10時近かった。重里記者とあるホテルのバーに出かけた。
建物の最上階にあり、掛川駅とライトアップされた掛川城の美しい姿が見えた。
ジャズの生演奏もあり、イパネマの娘などが演奏されていた。バンドの方の「リクエストがないと淋しい」という声に応えて、重里記者は「Take the A train!」とリクエストしていた。
美しい夜景と音楽の至福の一時。旅の疲れが癒された。掛川はそれほど大きな町ではないが、こんなに洒落た場所がある。文化的にも豊かで、それは経済的な豊かさに支えられているのではないかと思った。東海道は江戸時代から主用街道として栄えたが、その富みの蓄積が今日まで続いているのかもしれない。

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