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司馬遼太郎を歩く
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『功名が辻』取材レポート
 
郡上八幡編 掛川編 (上) (下) 高知編 

 

司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』掛川編(上)

平成14年11月6日UP
(取材日:平成14年9月15日)

 

掛川編(上) 1.山内一豊の出自
  (1)山内氏について
  (2)一豊出身地
  (3)秀吉以前の一豊
2.山内一豊と領地
掛川編(下) 3.掛川城を歩く
  (1)掛川城の歴史
  (2)掛川城天守復興と高知城
  (3)地形から見た掛川と高知
4.関七郎先生のお話
  (1)『功名が辻』と掛川
  (2)掛川時代の足跡から一豊を考える

5.一豊と掛川

1.山内一豊の出自

静岡県掛川市。山内一豊が十年の歳月を過ごし、本格的な領土経営を行った地。
郡上八幡編では千代の出自を考えてみたが、この掛川編では一豊の「履歴」を考えてみる。

(1)山内氏について

山内家は秀郷流藤原氏・首藤山内氏の子孫を名乗っている。しかしながら、この系図については疑問も多く、信憑性も高いとはいえない。山内家の出自は不明と言って良いだろう。
山内一豊は1546年頃、尾張北部の生まれとされる。祖父の代から一定の勢力を保ち、美濃に領地を持っていたという。
父の山内盛豊(1500〜1557or1559)は、岩倉織田氏の家老を務めていた。尾張は守護大名斯波氏の守護代・岩倉織田氏と清洲織田氏に分かれて争っていたが、当時の尾張を二分する家の家老職だから、一豊は(尾張の中では)かなり良い家柄の出であったともいえる。
母は梶原氏の出だと言われる。鎌倉幕府において源頼朝の側近として権勢を振るい、頼朝の死後失脚した梶原景時の子孫。失脚後子孫が尾張犬山に逃れ、その家系の娘だとされている。

郡上八幡編でも触れたが、一豊の姉・通は西美濃の名家・安東家に嫁いでいる(1546頃)。このことからも、山内家がまずまずの家柄と見なされていたことがわかるのではないだろうか。一方では山内家の美濃との結びつきもうかがわれる。
『功名が辻』でも司馬さんは「尾張では通りの良い家柄」とし、千代も婚礼の日に一豊を「気品がある」と見ている。この描写はまずは史実通りではないかと思う。

(2)一豊出身地

一豊の出生地としては、二つの説がある。一つは愛知県岩倉市。父・盛豊の主君の主城があった町。もう一つは同じ愛知県の木曽川町。山内盛豊の本拠地・黒田城があった土地だ。
しかし二つの説があると言いながらも、一豊の父は岩倉織田氏の家老であったことは共通しており、主家の城下で生れたのか、自らの本拠地で生れたかの違いでしかない。地域的にも二つの町は尾張北部に位置している。様々な説がある千代に比べれば、一豊の出生は比較的明瞭だと言える。

さて、一豊が生れた頃、清洲織田氏の奉行だった織田信秀が勢力を伸ばし、主家を圧倒。さらに信秀の子・織田信長が台頭して、岩倉織田氏を滅ぼし、尾張を統一。この過程において、一豊の父・盛豊と兄・十郎は信長の夜襲にあい、黒田城で討死したと伝えられる。(1557年とも59年ともいわれる) 一豊は12〜14歳頃だったと考えられる。

(3)秀吉以前の一豊

父の死により、一豊と母・法秀院(?〜1586)は弟妹を連れての流浪の身となる。
『一豊公記』によれば、秀吉に仕える(1568〜70頃)まで、盛豊の従弟・浅井賢政(尾張)、次いで縁戚の前野長康(美濃)、斎藤龍興家臣・牧村政倫(美濃)に寄寓、そして近江勢田(大津)城主・山岡景隆に児小姓として200石で召抱えられる。1560年のことであり、一豊15歳前後であったと思われる。山岡景隆は当初信長には敵対していたが、1568年の信名上洛以降、側近となった。この線で一豊は信長の配下である秀吉に仕えることになったのではないだろうか。

一方、流浪時代、一豊は母・法秀院に連れられて、近江の長野家に身を寄せたとも伝えられる。ここから山岡氏への仕官との関連も考えられる。(このとき、法秀院は裁縫を教え、その教え子の中から美しく賢い千代を息子の嫁に推したとされる。これが「千代近江誕生説」であり法秀院の墓は近江町にある) 一豊は山岡氏時代最低8年間(長ければ10年余)は近江で暮らしており、千代よりも一豊の方が近江に関わりがあったのかも知れない。

『功名が辻』では、一豊は当初織田信長に仕官し、秀吉の寄騎となり後に直接秀吉に仕えるようになった、とされているが、信長に直接仕えた形跡はないようだ。しかしながら、山岡氏→秀吉配下への移動には信長の意志があったことは考えられる。
千代との結婚は1570〜73年頃と推測されている。

年度
(西暦)
一豊年齢 出 来 事
1546
(1545説もあり)
0 山内一豊誕生
姉・通、安東郷氏に嫁ぐ
1557又は1559 11〜14 父・盛豊、兄・十郎、討死、一豊流浪の身に
1557 11 千代誕生
1560 15 近江勢田城主・山岡景隆に仕える(200石)
桶狭間の戦い(織田信長、今川義元を破る)
1567 22 織田信長、斎藤龍興を破り美濃を領土に
千代の母の再嫁先・永井氏滅亡。千代と母は稲葉山城に入っていたが、落城により流浪の身に。安東氏の元に身を寄せる?…郡上八幡説、千代11歳?
1568 23 山岡景隆、信長の側近に
一豊、この後秀吉の配下に(1568〜70の間?)
1570〜73 25〜28 千代と結婚(千代は14〜17歳?)

2.山内一豊と領地

山内一豊は最終的には土佐24万石の太守となり、土佐における確固たる地位を築いた。しかしながら、一豊個人と領国というと、むしろ掛川の印象が強い。1590年から関ヶ原の戦いの後、高知に移るまで約10年間を過ごしている。一豊45〜55歳にかけての時期で、働き盛りの時代だったともいえよう。

ここで一豊の領地変遷を振り返ってみる。

領  地 石 高 年度
(西暦)
一豊年齢
(1546年生れで計算)
備  考
近江唐国
(滋賀県虎姫町)
400石 1572〜1577 27〜32 信長の浅井・朝倉攻め(1572)で、朝倉方の猛将・三段崎堪右衛門(小説では「三崎」)を討ち取る。この戦功による初知行地。
1575年には長篠の戦い。
播磨有年
(兵庫県赤穂市)
700石
(1,500石)
1577〜1584 32〜39 この頃、秀吉の毛利攻めの一環として、播磨の領地になったと考えられる。
1582年本能寺の変、信長死去。秀吉は毛利攻めを中断し、明智光秀を討つ。
1583年には賎ケ岳の戦い、この後柴田勝家滅亡。
1584年の小牧・長久手の戦いを経て、秀吉、信長の後継者としての地位を確立。
一豊も1582年以後、播磨印南(兵庫県加古川市)500石、河内交野(大阪府枚方市)361石を加増され、約1500取りになる。
(『功名が辻』には播磨有年は登場しない)
長浜
(滋賀県長浜市)
5,000石 1584〜1585 39〜40 5000石に大幅加増
若狭高浜
(福井県高浜町)
7,000石
又は
19,870石
1585 40 柴田勝家の滅亡と丹羽長秀の死去に伴う配置換えの一環による。
約4ヵ月の短期間。7000石とも19870石とも言われる。
(『功名が辻』には若狭高浜は登場しない)
長浜 20,000石 1585〜1590 40〜45 長浜を再度知行
1585年、地震で与禰姫を失う
1586年、母・法秀院亡くなる
1590年、小田原征伐。北条氏滅び、秀吉の天下統一。
掛川
(静岡県掛川市)
50,000石 1590〜1600 45〜55 豊臣秀次(いわゆる”殺生関白”)付きとなり、秀次の尾張入国に伴い、掛川を拝領。10年に渡り領国経営を行う。
1592年、第一次朝鮮出兵。
1594年、豊臣秀次切腹。
1597年、第二次朝鮮出兵。
1598年、豊臣秀吉死去。
1600年、関ヶ原の戦い。
高知 200,000石 1600〜1605 55〜61 土佐20万石の太守に栄転

一豊も幾度かの領地替えを経験しながら、順調に石高が増えていったが、当然のことながら、主君・豊臣秀吉(や織田信長)の動向に拠っていることがわかる。
最初の知行地・近江唐国は、浅井・朝倉攻めの戦功によるものであるし、播磨有年は秀吉の毛利攻めに関連している。
播磨有年の終わりの頃、領地が加増されている。この頃本能寺の変がおき、秀吉は信長の後継者としての地位を築きつつあった。一豊の加増もまた、秀吉の勢力伸張と関わっていると考えて良いだろう。山岡氏の元から秀吉の部下になったことが一豊の運命に大きな影響を与えた(プラスになった)といえる。
秀吉が柴田勝家を討ち、小牧・長久手の戦いで苦しみながらも徳川家康を”懐柔”して信長の後継者としての地位を確立するに伴い、一豊もまた大幅加増になる。秀吉の旧領・長浜を領し五千石、若狭高浜を経て長浜に戻り、二万石の領主になる。
長浜時代は約5年間に渡っており、一豊の大名としての出発点と言えるのかもしれない。秀吉の天下統一が成就しつつあった時代であり、戦はあったものの、一豊にとってはまずは大過ない時代だったと思われる。
掛川時代は長浜の後だが、五万石に加増され、在任期間も約十年間と一豊にとっては最長。長浜が秀吉によって既に建設されていたのに対し、掛川は一豊が本格的な領国経営を行った最初の土地。この時期は朝鮮出兵、秀吉死去、関ヶ原の戦いと、難しい時代だった。また、一豊は豊臣秀次の配下となっていたこともあり、秀吉と秀次の軋轢、秀次の切腹など、かなりきわどい事態にも直面したと思われる。このキー・ポイントになる時代をうまく乗りきり、一豊は土佐20万石の太守になる。

上の表を見ると、一豊が織田→豊臣、豊臣→徳川という時代の局面をうまく乗りきり、大きなステップアップとしていることがわかる。織田→豊臣においては、一豊は秀吉の配下であったので、時代の流れに乗った、と見ることもできるが、豊臣→徳川においては大幅に上昇することとなった。一豊と千代は時代の流れを読み取ったということではないだろうか。

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