司馬遼太郎を歩く
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『功名が辻』取材レポート
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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』高知編(下)

5.千代とは

「おね」「まつ」と並び、戦国〜織豊期の代表的な賢夫人とされた一豊の妻(=千代)。それでは、千代を賢夫人たらしめたものとは、何だったのだろうか?

(1)関ヶ原前夜の密書

関ヶ原の戦いの後、山内一豊は掛川六万石から土佐二十万石へ”栄転”した。関ヶ原でさしたる武功もなかったのに、大幅加増となったことについては、このことには関ヶ原の戦い直前の二つの出来事が起因している。
まず一つは、一豊が家康について会津若松の上杉攻めに出ている間、西軍方からの密書(西軍に付くようにとの誘い)が山内家に届く。千代はそのまま一豊に送り、併せて封を切らないまま家康に差し出すようにとの手紙を添えて家臣の田中孫作に届けさせる。孫作は、手紙を笠の緒に編み込み,、一豊に届ける。一豊は密書を開けずに家康に差し出し、多大な信頼を得ることとなった。
もう一つは下野の小山における軍議(いわゆる小山評定)の席で、西軍との合戦に向けての進軍途中、自らの領地である掛川を差し出すと言ったこと。他大名も関を切ったように一豊に追随し、家康は自らの軍資金を減らさずに関ヶ原の戦いに臨むことができた。また、諸大名への統率力は増し、軍の士気もあがった。

密書の件は、千代が大きな役割を果たす。江戸時代、賢夫人として知られた千代であり、恐らくは同時代からその賢さは世間に知られていたことと思う。だが、その評価を後世に残すこととなったのは、この一件によるのではないか。
千代がいかに情報収集に気を配り、その処理が的確だったか、さらに一豊との連絡が緊密で、意志の疎通がうまくいっていたことをうかがわせる。一豊は上方に非常に高い能力を持った”外交官”兼”情報収集役”を持っていたことになる。

(2)時代を見通す目

一豊は経営能力、都市計画、組織力に長けていた。それに対し千代をどう評価するか、という点は、情報処理の過程において、千代の独自の発案と見るか、それとも「夫婦の連携プレー」を重視するか、ということになると思う。
得た情報を有益な方向に用いるという点では、一豊夫妻の連携プレーだったと思う。しかし、情報の最初の発信点や、情報処理の基本的な方向付け、すなわち時代の流れを読み取る力、先を見とおす力の多くは千代に拠っていたのではないか。千代が賢婦であると、同時代から評されていたのはこの能力によるのではないか。郡上八幡編でも述べたように、千代は女性版・黒田官兵衛であり、竹中半兵衛だったのかも知れない。
関ヶ原前夜で千代が演じた役割を考えると、やっぱり千代は偉大で、案外一豊夫妻は『功名が辻』の夫婦像に近かったのかも知れないと思えてくる。

一豊の妻といえば、戦前の教科書にも出ていた名馬の話が有名で、内助の功というイメージが定着していた。賢夫人ではあるが、あくまでも夫に尽くすという意味合いが強かった。
司馬さんの『功名が辻』では千代(一豊夫人)は自らの意志や希望を持った自律的な存在に描かれている。夫を一国一城の主に仕立てようとする一面さえもある。この新しい一豊夫人像を”千代”という形で描き出すことが『功名が辻』の一つのポイントだったのではないだろうか。
さらに、今日的な観点から見れば、一豊と千代は、どちらが有能か? といったことでなく、夫婦が共に助け合い、お互いを認め合って生きていくという、新しい夫婦像として評価すべきものではないか、とも思う。


千代と馬の銅像
(高知城)

千代の手は未来を指し示す?

6.高知の千代

『功名が辻』では、山内一豊はまず、長曾我部氏の居城だった、浦戸城に入る。土佐の情勢をうかがいつつ、海路千代を迎える。
一豊は土佐の太守になって、人が変わったようになる、一領具足へも強攻策でのぞむ。千代はこの成り行きに悩んでいたが、土佐の地を踏むとき、一豊に意外な言葉をかけられる。

「土を踏みたい」
 と、千代がいった。
「その土が、土佐だぞ。さまでいやがることはないのだ」
「そうでした」
「しかも、そなたによって得た、そなたの国だ」
 と、伊右衛門が、意外なことをいった。
「えっ?」
 千代は伊右衛門の顔を見つめ、
(このひとは、たしかにいまそういった。一豊様らしい、おだやかで謙虚な心をまだうしなっていないのだ)
 そう思うと、みるみる涙があふれてきて、海も浜も山なみも一つの青さに溶けかすんでしまった。

「浦戸」より 

一領具足の抵抗は頑強を極め、一豊はその鎮圧に悩む。ついに種先浜で偽りの角力(すもう)の大試合を催し、各村の力自慢を集め、鉄砲で惨殺。反乱は止むが、千代は強いショックを受け、思い悩み、一豊に告げる。
「夫婦の半生の努力が、結局は土佐の領民の命を奪う結果にしかならなかったか、とおもうと、なんのためにきょうまで生きつづけてきたのやら、悲しかったのでございます。しかしもう申しませぬ。申しましても詮のないことでございます」

さて、困難をきわめた城下町の建設も一段落し、高知城も本丸・二の丸が完成。一豊と千代は竣工した高知城に入城する。


五台山展望台より見た高知市街
大河が集まり、大規模な灌漑工事が必要だった

 

 伊右衛門の入城は、慶長八年八月二十一日におこなわれた。
 入城行列に参加した人数はざっと三千人。みなびびしく礼装して浦戸から高知までのあいだを練った。
 伊右衛門は馬上、長えぼし、大紋のすがたで馬を打たせた。千代は金蒔絵をほどこした女乗物でゆく。
 城下に入って、潮江川に白亜の影をおとす天守閣を見たとき、
(ご亭主どのも、この大城のぬしになられたか)と、さすがに感慨ふかかった。

「あとがき」より

 


追手門

三の丸より見た高知城
千代もこの天守を仰ぎ見たのだろうか?

城と城下の建設も進み、藩政の基礎を整えつつあった、山内家。最後に残った問題は、二代目藩主になるべく定められた、忠義(一豊の甥)の結婚相手だった。
既に世は安定期に入り、徳川幕府の体制の中で行動しなければならない。一豊と千代は気がすすまなかったが、土佐藩の安定のため、幕府に忠義の嫁を決めてもらう。
こうして、後継の嫁が決まったことについて、江戸屋敷から家臣たちが高知の一豊に報告にくる。
この日が一豊の最後の日となった。

 伊右衛門の脈が絶えたのは、その日の正午である。
 霧が晴れはじめていた。
 典医は伊右衛門の手首をにぎっていたが、やがてはなし、千代にむかって平伏した。
「ただいま、おかくれあそばされてござりまする」
 千代は伊右衛門の顔をのぞきこみ、すぐ顔をおおい、声をあげて泣きはじめた。千代は遺骸を抱いた。ゆり動かそうとした。まるで卑賤の農婦のような、身も世もない慟哭のしかたであった。
(わたくしどもの長い一生が終わった)
 と、千代は哭(な)きながら、思った。

「あとがき」より

 


高知城(本丸内で撮影)
築城当時、一豊と千代は右手の書院で生活していたという

一豊亡き後、千代は京都に上る。千代の死は、一豊の十年後のことだった。

 千代は、元和三年十二月四日、伊右衛門と同年の六十一歳で、他界した。
「ずいぶんと、おもしろく生きてきました。しかし、少し疲れたようです」
 と、小さく言い、その言葉を最後に、目を閉じた。そのまぶたはついにひらかなかった。
 雪がはげしく降る夕だったらしい。

「あとがき」より

 

取材を終えて

高知を訪れたのは9月末だった。だが陽射しはまだ鋭く汗ばむような気候で、南国土佐を実感した。
取材でお話をうかがった近藤勝先生は、御年80歳になられるが、笑顔で迎えてくださった。
近藤先生は豪快な土佐ことばを話される。よく映画などで耳にする「まっこと〜ぜよ」という言いまわしがとても自然で、「ああ、これが土佐のことばだ」と思い、感激した。
思えば近藤先生と司馬さんはほぼ同年代。司馬さんが『竜馬がゆく』などを執筆され、高知を訪れたときは、きっと近藤先生のような言い回しが町中で聞かれたことだろう。司馬さんもその語感や雰囲気から坂本竜馬などの人格を創造したのではないか、と思った。

 

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