司馬遼太郎を歩く
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『功名が辻』取材レポート
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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』高知編(中)

3.凡庸ではない一豊

『功名が辻』の一豊はどのように見られているのだろうか。山内家御当主の山内豊秋氏は次ぎのように述べられている。

司馬遼太郎さんの『功名が辻』では、愚図な駄目男とされ、土佐守になると、賢夫人のコントロールが効かなくなり、暴虐を尽くす。小説としてはおもしろいが、これでは一豊夫妻のセールス・ポイントが消滅してしまう。一豊夫妻は一生緊密であり、夫人の政治感覚や晩年、禅の達人であることなどは別としても、一豊自体、剛将・謀将にして、また政治・経済・農政・土木に長じ、さらに鉄砲や蹴鞠まで嗜む万能選手で、わが家の歴代ではピカ一である。難治の土佐統治も、やり抜いたと目される。小説であっても、歴史小説であるからには、史実の中核を抹殺するがごときフィクションを記してよいものか。乃木大将の旅順攻略を、戦術の無能者として断ずることへの世人の反発とともに、史料不足か早とちりである。敬愛する司馬さんに盾突きたくないが、この件は先祖のために反論しておきたい。

『山内一豊と千代夫人にみる戦国武将夫妻のパートナーシップ』「おわりに」より
 (大和田哲男・榛村純一編、清文社刊)

『功名が辻』の一豊は本当に無能なのか? 司馬さんは小説の中で、千代の聡明さを際立たせるために、ことあるごとに一豊を無能、凡庸という言葉を使って表現している。現実の一豊は小説とは違い、有能だったと言われる。だが、それ以前に『功名が辻』で描かれる一豊も、よく考えてみれば決して無能ではないように思う。

まず、三須崎堪右衛門(実際には「三崎」)を討ち取る場面では一豊の武勇が示される。一人の武者としても一定以上の人物だった。
司馬さんは例えば石田三成や加藤清正などと比較して出世が遅いと書いているが、それでも全国数万といる武士の中で見れば、万石取りの大名にまで出世したのはごく一握り。武士全体の中で見れば、決して出世できなかったという見方はできない。実は武士全体から見たら、掛川六万石でも大した成功者といえる。
しかも、織田・豊臣の家臣から出発して、江戸期を通じて健在であり、幕末まで持ちこたえたという大名はごくわずかではないか。
土佐山内家のほかには、加賀・前田家、肥後・細川家、筑前・黒田、安芸・浅野家、備前・池田家、阿波・蜂須賀家くらいではないだろか。その中でも領土替えがなかった家は、前田家・蜂須賀家・黒田家ぐらいでさらに限られてくる。
難治の土地を治めぬき、幕末まで所領替えもなく過ごす基礎を築いたという点では、「一豊の統治はまず成功だった」という山内豊秋氏の指摘は的を得ているだろう。
同じ外様でも、島津、伊達、毛利、上杉などは戦国時代に富強を誇り、元々の基盤が強い。さらに佐竹氏などは鎌倉以前からの源氏嫡流に近い名門だ。この点から考えれば、織田・豊臣系の外様大名がいかに際どい立場にあるかがわかるだろう。
微妙な立場ながら、このように安定した家と領土の基礎を築いた山内一豊という人物が無能であったとは考えられない。奥方が有能であった、というだけでは、大名にはなれないはずだ。
さらに、千代の存在が大きかったとしても、その意見を取り入れ、調整し、実行する能力がなければ、意味がなかったはずだ。優れた意見を柔軟に取り入れ、実行に移す…山内一豊は組織作りという点でもかなり有能な人物ではないだろうか。私はこのあたりに山内一豊の視野の広さ、度量の大きさ、さらに人間的な魅力を感じる。

このように見ていくと、『功名が辻』の一豊はかなり有能な人物ではないかと思う。高レベルのオールラウンドプレーヤー、といった印象だ。司馬さんは一豊に「無能」「凡庸」と見せることにより、千代の聡明をさ、賢さを印象付けようとしたのではないだろうか。
しなしながら、『功名が辻』という小説を考えたとき、一豊と千代への評価を史実に忠実に表現していたら、あの小説は存在しえず、圧倒的な存在感を持つヒロイン「千代」は誕生しなかったのではないか。
このあたりは司馬さんの小説家としてのテクニックではあるが、司馬さんの小説は、事実を圧倒して、現実の話のように思われることが多々ある。また、小説でありフクションとわかっていても、書かれた側にとってはそれでは済まされない、ということもあるのだと思う。山内一豊は時代上の人物になっているといっても、子孫の方々には割りきれない部分も当然あるのだろう。


山内一豊像
(高知城)

勇ましい武者姿の一豊
小説よりも現実のイメージか?

4.高知の一豊

(1)一領具足への対処と種崎浜の事件

山内一豊を考えるとき、その評価を難しくするのは、土佐における統治のあり方、一領具足への対処の仕方なのではないだろうか。
一豊は土佐入国にあたって、新しい家臣を上方で大量に召抱え、土佐では採用することはほとんどなかった。この時点で長曾我部氏の遺臣(一領具足)にどう対応するかが決まってしまったのではないかと思う。
一領具足は長曾我部氏の軍の中核を成していた存在。普段は農地を耕しながら、戦のときは具足をつけて馳せ参じた。一豊が上方で家臣団を既に編成していたということは、一領具足を支配される側におく、ということだ。より具体的にいえば、彼らから武力を剥ぎ取り、ただの農民にすること。一豊は力でもって、長曾我部氏の遺臣を封じ込める方法を取ったことになる。

土佐、統治が難しい土地。家康は関ヶ原の功績を認めたのか、それとも難治の土地であることをわかって、あえて一豊に与えたのだろうか? 家康という人物から考えて、難治ということがわかっていて与えた可能性が大きいのではないかと思う。外様大名を潰そうとしたということか。それとも一豊の地道な経営能力を買っていたのだろうか?
一豊はこうした状況も十分に把握していたのだろうと思う。短期間のうちに政情を安定させなければ改易になる可能性も大きい。そうした焦りもあって、武力で封じ込めようとしたのかも知れない。

結局、いたちごっこのような討伐戦を繰り返した末に、種崎浜の惨事が起こる。
一領具足に手を焼いた一豊は、角力(すもう)の大試合を催すという偽りの布令を出し、国中から豪の者を種崎浜に集め、隠していた鉄砲で皆殺しにする。
このショッキングな出来事で一領具足の反乱は下火になる。
私は一豊は決して無能な人物だとは思わない。それどころか、かなり有能で、高水準のオールラウンドプレーヤー的能力を持った人物だったのではないかと思う。しかしながら、この一点に関しては、戦国直後の時代という点を差し引いても、「暴虐」だったのではないかと思う。一豊には大きなマイナスイメージになっているのではないか。

(2)司馬遼太郎から見た山内一豊

『功名が辻』では、一豊と千代は基本的にほのぼのと描かれているが、高知時代に至ってはかなり厳しい評価となる。千代の口を借りて、司馬さん自らの一豊への批判となる。
このあたりには、司馬さんの土佐との関わり方も影響しているのではないか。
司馬さんの代表作といえば『竜馬がゆく』。竜馬や土佐藩の志士たちは郷士階級の出であり、当然司馬さんの見方も郷士方に立ったものだったのではないだろうか。郷士とは、元は一領具足であり、長曾我部氏に結びつく。『夏草の賦』という作品も、『竜馬がゆく』で土佐を描いた司馬さんが、必然的に調べ、書かずにはいられなかったテーマなのかも知れない。
『功名が辻』は一豊と千代を軸にした作品であり、土佐が主題というわけではない。しかし、小説の舞台が土佐に入ったとき、『竜馬がゆく』『夏草の賦』と微妙な形で結びつき、トーンが若干変わって行くような気がする。
また、司馬さんの人間的な一面も反映されていると思う。『歳月』においては、大久保利通を評価しながらも、江藤新平に残忍とも言える刑を科したことに対しては、かなり厳しい表現で批判している。
政治には、ある程度の冷徹さは必要だったと重いながらも、心情的には完全には賛同できずむしろ批判的である…種崎浜をはじめとする一領具足への対処には司馬さん個人の特徴も反映されているのではないだろうか。

さて、司馬さんが一豊についてずっと辛口かといえば、そうでもないと思う。「武家であれほど情け深い人はなく」「長浜や掛川では領民に好かれ」「おだやかで謙虚な心を持ち」「律儀な」人物として描いている。私などは、司馬版一豊に対して「無能、凡庸」という短所よりも、この長所の方を強く印象付けられている。

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