[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

 

司馬遼太郎を歩く
(INDEX)へ戻る
『功名が辻』取材レポート
郡上八幡編 掛川編 高知編(上)(中)(下) 

 

司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』高知編(上)

平成14年11月22日UP
(取材日:平成14年9月28・29日)

 

高知編(上) 1.土佐山内家宝物資料館
  (1)渡部副館長にお話をうかがう
  (2)枡と肖像画
2.近藤勝先生を訪ねて
  (1)『功名が辻』より『夏草の賦』
  (2)山内一豊と千代について
  (3)上士と郷士の対立
高知編(中) 3.凡庸ではない一豊
4.高知の一豊
  (1)一領具足への対処と種崎浜の事件
  (2)司馬遼太郎から見た山内一豊
高知編(下) 5.千代とは
  (1)関ヶ原前夜の密書
  (2)時代を見通す目
6.高知の千代

郡上八幡・掛川と訪ね、いよいよ高知へ。山内一豊と千代との夫婦の物語も終わりに近づく。
一豊は関ヶ原の戦いの(というよりも戦の前に徳川家に有利な状況を作った)功績で、掛川六万石から土佐二十四万石へと「栄転」する。
土佐は元来四国の覇者・長曾我部氏の本拠地だった。長曾我部氏は関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、領地を没収され、その後に一豊が乗り込んむ。
一豊は長曾我部氏の遺臣(一領具足)の反乱に悩みながらも、高知城と城下町を建設。以後幕末まで続く土佐山内家の基礎を築いた。その意味では、一豊においては、その人生の集大成の地ということになる。

土佐における山内一豊と千代とはどのような存在なのだろうか。そして高知時代の一豊の足跡は如何なるものなのだろうか?
土佐山内家宝物資料館の渡部副館長、郷土史家の近藤勝先生にお話をうかがい、高知城を歩いた。

1.土佐山内家宝物資料館

(1)渡部副館長にお話をうかがう

鏡川に面した静かな木立の中に土佐山内家宝物資料館がある。山内家に関する宝物や資料が展示されている。渡部淳副館長にお話をうかがった。渡部先生は副館長という役職に就かれているが、まだ若い方でとても丁寧かつ客観的なお話を聞かせてくださった。

山内一豊について
渡部副館長は、一豊の人物像から話された。
関ヶ原前の動き方、土佐の統治という面から見ると、一豊はかなり器量のある人物だった。
まず、短期間で高知の町を作り、藩政の基礎を築いたという点があげられる。
この点は、掛川で関七郎先生のお話と一致する。高知・掛川と、二つの町を見事に作り上げ、高知では川に堤防を築き、湿地帯から排水を行うなど、治水事業なども見事にこなし、その上で城下町を形成した。これには相当の能力が必要ではないだろうか。
さらに関ヶ原直前の動き方からは情報の扱いに優れていたという点が上げられる。情報を収集し、全体を見渡す視野の広さの中でその処理を行う。それには、裏方の調査をすばやく進め、有能な家臣を備えていたこともうかがわれるという。
山内一豊とは、かなり密度の高い思考能力持ち、それを実行する力も持っている。隙のない、能吏型の大名だったのではないかという感想を持った。

一豊夫人(千代)について
”千代”は藩祖夫人。山内家では格別な存在であり、重視されていたという。女性の存在を示したプラスの面もあるということだった。
”千代”について特筆されることは、政治・外交的な役割を果たしてたということだという。その一例としては、秀吉夫人の北の政所と関係を持ちつづけた。山茶花(さざんか)を土佐から献上したこともあったという。
一豊の死後、千代は京都に住んだ。家臣たちは止めたというが、千代は幕府や大名との交流を持ちつづけ、外交を行い、情報を得ていた。それは土佐藩にも大きなプラスになったという。
関ヶ原前夜、大阪から一豊に貴重な情報を送った千代は、夫亡き後も、京で土佐藩の外交に一役買っていたことになる。政治感覚・外交感覚に優れた女性だったという印象を持った。

(2)枡と肖像画


見性院御枡と箱

見性院御枡写
山内一豊は織田信長に仕えていた頃、多くの家来を召抱えたために、家計は楽ではなかった。
一豊の妻は倹約に努め、枡を裏返してまな板代わりに使用していたという。
山内家の家宝として大切に保管されていたが、残念ながら第二次大戦で焼失。写真の枡は複製だが、焼失後ではなく、江戸時代に既に作られていた。焼失した枡の姿を忠実に残していると思われる。枡の裏には包丁の跡もあった。


 そのくせ、千代は、山内家の家計をあずかる主婦のくせに、マナ板ももっていないのである。
 米をはかるマスを代用にしていた。
 彼女の持っているマスというのは、材は竹板で、フチは竹である。
 これを裏返してマナ板につかう。
 伊右衛門が一度台所をのぞいて、
「マナ板ぐらい、作らせたらどうだ」
 とまゆをひそめたが、千代はびっくりしたように伊右衛門を見あげ、
「このほうが、ずっとつかいやすうございます。わたしが工夫したつもりでございますに」
 千代はその上で大根を切ってみせた。
 トントンと快いいびきが生じた。
「ね、小鼓のようでございましょう」
「なるほど」
 つい、千代の話しかたのリズムにひきこまれて感心してしまった。
「なるほど、台所の小鼓か」
「ついでに幸若舞でも舞ってさしあげましょうか」

『功名が辻』姉川より


見性院像
(山内一豊夫人肖像画)

恐らく50代、京都にいた頃と思われる。知的で穏やかな表情が印象に残る。

山内神社
土佐山内家宝物資料館のお隣にある

*枡と肖像画の写真は、財団法人土佐山内家宝物資料館の許可をいただいて掲載しています。よって転載などは、固くお断り致します。

2.近藤勝先生を訪ねて

土佐の風土に根ざした郷土史家の先生にお話をうかがいたい、ということで、高知市郊外に近藤勝先生(元高知学園短期大学学長)を訪ねた。

(1)『功名が辻』より『夏草の賦』

近藤先生は、司馬さんの作品では『功名が辻』よりも長曾我部氏を描いた『夏草の賦』の方が好きだという。関ヶ原の戦いで長曾我部氏は西軍につき、領地を没収され、東軍についた山内氏はその領土を得、掛川六万石から土佐二十万石に”栄転”した。いわば”占領軍””進駐軍”である。そして、山内氏と掛川侍は、元々の土佐の住民である一領具足を家臣団に入れず、厳しい身分差を強いた。
土佐人を自認する近藤先生は、当然長曾我部氏に誇りを持つ。土佐一国を平定し、さらに秀吉に敗れたとはいえ、自力で四国をほとんど統一するほどの力を持っていた長曾我部氏はいわば四国の雄。元々六万石であった山内氏とは地力が違うという見方だった。さらに当然のことながら、”占領軍”である山内氏には好意的な見方をしていない。
長曾我部氏、山内氏、様々な見方があるが、近藤先生の見方は、土佐人の長曾我部・山内に対する広範かつ一つの典型的な見方を示していると思う。

(2)山内一豊と千代について

高知城の築城、城下町の造成などを見ると、政治化の見識はある。同時代の大人物、家康や秀吉、その他戦国〜安土桃山を彩った大名たちにくらべれば、それほどではないが、それでもそこそこの戦国武将ではあったという意見だった。
ただし、高知城下町造成に関しては、長曾我部元親も試みていた。元親は結局洪水などで断念したが、それは戦国〜秀吉の治世という激動の時代であり長曾我部氏も城下町形成に専念できなかったことも影響しているのではないか、ということだった。
一領具足については、厳しく弾圧した反面、うまく治めなければ、土佐藩政はうまくいかないことを見抜いていたが、約5年という短い時間の中ではそのための政策を実行することができなかったのではないか、ということだった。
近藤先生は、長曾我部氏よりの姿勢をとられながらも、一豊については一定の評価はされていた。
千代について言えば、関ヶ原前夜の一豊の活躍が土佐二十四万石をもたらしたとされる。それは西軍からの密書を封を切らずに差し出したという点につきるという。したがって、土佐二十万石は正しく千代の力ではないか、ということだった。この例でもわかるように、千代の政治的手腕は大きい、ということだった。

(3)上士と郷士の対立

さらに近藤先生は土佐藩における一領具足についても話された。
土佐藩においては上士(山内侍)と旧・長曾我部の遺臣である一領具足の関係が治世上のポイントになっていた。土佐藩は一領具足を厳しく抑えながらも、ある程度はその対立をおさめなければ藩は分解する。
その意味で、野中兼山の存在は重要といえるだろう。兼山は郷士制度を定め、一領具足を土佐藩に取り込んでいった。藩政に一応の安定をもたらすことになる。野中兼山の治世の末期には郷士は約600人にも上り、上士を凌ぐ数になったという。
山内氏(とその家臣団)と一領具足の対立が大きな問題点であった土佐において、野中兼山の存在意義の大きさがわかる。一般に土佐の代表的な人物というと、坂本竜馬や山内容堂が頭に浮かぶが、恐らく高知県人、地元の方にとっては、野中兼山の存在は実は竜馬や容堂より重いのではないか? 近藤先生のお話をうかがっていると、そのように思えてきた。

野中兼山の郷士制度により、一応の安定をみた土佐藩政だが、依然として上士と郷士の間には厳しい身分差があり、対立は依然として続く。この対立は土佐藩の不安定材料である反面、活力にもなっていったという。
一領具足に残酷とも言えるような弾圧を加え、結局土佐の地は、上士階級と郷士階級の間で、幕末に至るまで融和せず、国内における安定性を欠いた。幕末における山内容堂と武市半平太や坂本竜馬の活動の不統一性、というよりまったく違った方向性を持っていたことの原点が、一豊の時代に形成されていた。
しかしながら一豊の政策は、上士と郷士の相克が土佐藩のエネルギーとなり、幕末の独自の活動を生み出した。時代は巡り、一豊と一領具足の関係は、山内容堂と坂本竜馬(や武市半平太、中岡慎太郎)に引き継がれる。その意味では坂本竜馬を生み出したのもまた山内一豊だったのかも知れない。

近藤先生は長一領具足や郷士、またその他の長曾我部氏の遺臣に対する思い入れがとても深い。勤皇四天王と呼ばれる、郷士出身の武市半平太、坂本竜馬、庄屋階級の出である中岡慎太郎、吉村寅太郎。
中岡慎太郎は、かつては坂本竜馬と同じくらいの人気があった。それが『竜馬がゆく』が発表されてから、竜馬人気が高騰したという。竜馬以外の志士達にも深い愛情と尊敬を持つ近藤先生は、司馬さんに会った際に、「竜馬ばかり人気が出るのは如何なものか」と一言もの申したという。

近藤先生のお話をうかがっていると、現代に至っても、土佐の人々は長曾我部氏に多大な誇りと郷愁をいだいていることがわかる。それは逆の面から見れば、土佐の統治が山内氏にとってはいかに難しいものであったか、ということを示しているように思えた。
山内一豊の最初の政策が、土佐藩の在り方、その後の維新の動きまで規定してしまったのだろうか。

司馬遼太郎を歩く
(INDEX)へ戻る
『功名が辻』取材レポート
郡上八幡編 掛川編 高知編(上)(中)(下)