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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』郡上八幡編(下)
〜千代の故郷を探して〜
4.佐藤とき子先生のお話
町を歩いたり、その後喫茶で一休みしたりする間、佐藤とき子先生から郡上の歴史のお話をうかがった。そのお話をまとめてみた。
(1)東氏と安東氏
安東氏は元来安藤と名乗っていたが、室町時代に一度後継ぎがなく、東氏から養子を迎えた(氏世、東常縁の兄)。このときから安東とも名乗るようになった。遠藤慶隆の最初の妻は安東氏の出である。一方遠藤盛数の娘は母の再嫁先の永井氏が滅びたあと、一時期安東氏にあずけられていた。このように安東氏は、東氏・遠藤氏と密接な関わりがあった。(2)遠藤氏と山内氏
小牧・長久手の戦いで、山内一豊は遠藤氏及びその親戚と同じ軍に入っていた。当時の軍は親戚同志で固めることが多かった。裏切りを防ぐことや、戦線が崩れることを防ぐためだったという。したがって、山内氏と遠藤氏は縁戚関係にあった可能性が高い。その縁戚関係とは一豊の妻が遠藤氏の出だったということではないだろうか。(3)若宮氏の娘と五藤氏
一豊の妻が近江の若宮氏の娘だという説は、若宮氏の「まつ」という女性が山内氏に嫁いだということから定説になっていた。ところが、実際には「まつ」が嫁いだのは山内氏ではなく、”山内氏の家臣”の五藤氏だった。「山内氏の家臣・五藤氏に嫁いだ」という話が、いつしか「山内氏に嫁いだ」と誤って伝えられるようになった可能性が高い。
さらに、近江に「まつ」の遺領を守る「若宮外記(げき)仲間」という集まりがあるが、この「外記」は土佐の五藤家に代々伝わる名だったということで、若宮氏が嫁いだのは、やはり五藤氏だった可能性が高い。(4)「千代」とその母(照用院)
一豊の妻が遠藤氏の出だとするなら、その母(照用院=東氏の娘)の影響が強い。一豊の妻は賢夫人として知られるが、母の薫陶による部分も大きい。照用院は遠藤盛数と死別した後、娘(=千代?)を連れて永井氏に嫁ぎ、永井氏滅亡の後は戦国の世を流浪した。この中で母娘の絆はひとしおではなく、それと共に武家でもトップクラスの教養を誇る名門・東氏の文化的遺産が一豊の妻に伝わったのではないか、ということだ。
5.山内家と美濃のつながり
それでは山内一豊における美濃との繋がりはどのようなものなのだろうか。ここでは、安東氏が一つの鍵を握るように思う。
元々山内氏は、岩倉織田氏の家老を務めた家柄だった。織田信秀(信長の父)に主家が滅ぼされた後、戦国の世を流浪し、近江の長野氏に身を寄せたとも言われる。
一方、一豊の姉(通姫)は美濃の安東氏(当主・安東守就の弟、郷氏)に嫁ぎ、通称「北方殿」と呼ばれる。
前記のように、安東氏は東氏・遠藤氏とも密接な関係にあり、遠藤盛数の娘も一時期身を寄せていた。とすれば、安東氏こそ、一豊と千代を結ぶ存在なのではないだろうか。千代が縁戚・安東氏の元に身を寄せていた頃、一豊もまた、姉を頼って安東氏を訪れたことがあったのかも知れない。安東氏が二人の接点だったのかも知れない。
東氏・遠藤氏・安東氏・山内氏関係略系図
6.「千代」を考える
(1)郡上八幡説から見た「千代」
郡上八幡説から見た「千代」とはどのような存在なのだろうか。
この説では「千代」は遠藤盛数の娘であるが、幼い頃母(照用院)と共に郡上を離れ、以後永井氏の元など、母と共に戦国の世を流浪することとなった。母娘の繋がりは必然的に強まったに違いない。
母の照用院は、平安末期からの名族・千葉氏の流れを汲む知的名門・美濃東氏の娘であり、千代もその高度な古典的教養を母から受け継いだに違いない。
山内一豊夫人の「千代」というと、同じ織田信長の家来の妻という点で、豊臣秀吉の妻「おね」や前田利家の妻「まつ」に似たイメージがあると思う。
しかしながら、東氏の伝統を濃厚に受け継いでいるとすれば、彼女たちよりも遥かに高度な古典的教養を持っていた可能性が高い。今川寿桂尼(今川義元の母、京の公家・中御門家の娘)にも通じる教養を持ち、その一方で母の再嫁や戦国の世の流浪を通じての世間的な知恵をあわせ持つ。知的でありつつも人の気持ちもわかる女性だったのではないだろうか。そこが後世、賢夫人と称されるようになった理由ではないだろうか。
(2)司馬遼太郎が造形した「千代」
『功名が辻』で司馬遼太郎が造形した「千代」とはどのような存在なのだろうか。
一般的にこの小説を読んだ人は(私も含めて)永井路子の解説が印象に残っていることと思う。あるいは、永井氏の解説は、読者の「千代」観に大きな影響を及ぼしているのかも知れない。
ここでその部分を引用してみると
戦国時代には、それまで歴史の表面にはかつて登場しなかったような人間が次から次ぎへと出て来る。司馬さんは、それらの人々を、「土民型」と規定している。(中略)今までの上流階級のしきたりとか教養とは全く無縁の所から登場して来る、明るくたくましい人間たちを司馬さんはこう呼ぶわけだ。これを女に求めるなら、秀吉の正室、おねね、とか前田利家の妻のおまつがこれに当る。彼女立ちは、お市の方とか、家康の正室、築山殿などとは全く別の土壌から生い育った。そして、山内千代も、やや出自は異るにせよ、この「土民型」「農民型」に属するおもしろさを持つ、と司馬さんは言う。
(中略)
いわゆる「土民型」といっても、地べたに吸いついた農婦型ではなく、そこにいささかの知性のひらめきのある女性を描こうとした司馬さんの用意は、こんなところにも現れているのである。
そう言えば、彼女は近江の生れということになっている。骨太な尾張女であるおねね、おまつとはいささか違う。都に近いせいもあって、近江人はどこか垢ぬけた利発さを持つ。千代は多分に近江人的な軽快な知性の持主であったようだ。『功名が辻』の千代は、その基本として「おね」や「まつ」に近い存在であるとされる。その一方で、永井氏の言葉を借りれば「都に近い」「近江人的な軽快な知性の持主」としている。すなわち庶民的でありながら、垢抜けた感覚と知性を持つ、一見矛盾した二つの感覚を内包する、ということだろう。
その一方で『功名が辻』を読んでいると、千代は司馬遼太郎が描いた他の人物との共通点があるようにも思われる。すなわち『播磨灘物語』の黒田官兵衛であり、あるいは竹中半兵衛だ。
黒田官兵衛は優れた知略を発揮するが、それは決して物質的欲・名誉欲のためではない。知略の背景には古典的教養とモラルがあり、自らの能力を発揮してみたい…という芸術家の表現欲のようなものとして描かれる。
一方、千代の知略もまた、物質・名誉欲は希薄で、「どうせなら夫を一国一城の主に仕立てあげてみたい」という、自分の能力を発揮してみたい、という一種の表現欲であった。また、千代は小袖のデザイナー的な才能も持つが、それで名声を得たいということではなく、自らの感性を表現したいという欲求が根本にある。千代の政治的知略もまた芸術化の表現欲的な部分が大きい。千代は自らが知的でありつつも、伴侶の男性(=山内一豊)の能力を最大限に発揮させるための知恵を持つ。それもいやみにならずに極めて可愛い形で。これはある意味では男性にとっては理想の女性であり、司馬さんにとっても同じ、なのかも知れない。
しかし「女性」という以前に司馬さん好みの人物像が女性の形をとって現れた…それが『功名が辻』の「千代」なのかも知れない。千代はその少女時代、安東氏のもとにいたことがあった、と書いたが、実は竹中半兵衛の妻も安東氏の娘である。これは私の勝手な想像だが、どこかで千代と半兵衛に接点があったのかも知れない。あるいは会ったことが無くとも、同時代の優れた人物として、千代は半兵衛の行動や見方から多くのものを学んだのかも知れない。そう考えると、千代の知略は竹中半兵衛譲り…そんな想像をするのもまた楽しいと思う。
(3)二つの「千代」像を比較する
それでは、「郡上八幡説」の千代と『功名が辻』の千代を比較してみよう。
出身地では美濃の郡上と近江では根本から異なるような印象があるがその人間像には微妙に共通する部分があると思う。
まず、『功名が辻』解説の「土民型」という表現。千代が郡上八幡の出身(=東氏の血筋をひく娘)ならば、この土民型はあてはまらない。むしろ武家では最高水準の教養を持っていたことになる。お市の方や築山殿を遥かに凌ぐ水準だったとも思われる。ただし、永井氏滅亡後、戦国の世を流浪し苦労したということなら、「土民型」の感覚も兼ね備えていたことになる。
そして、「近江女の軽快な知性」…永井路子は「おね」や「まつ」との微妙な相違点として「垢抜けた軽快な知性」をあげ、そのルーツを近江の地に求めている。郡上説が正しければ、これは見当違いになるが、しかしながら「垢抜けた軽快な知性」とは、”東氏譲りの豊かな教養”と重なるのかも知れない。司馬さんの「千代」と郡上八幡の「千代」…両者のイメージのルーツは異なるが、実際に『功名が辻』で描かれた千代は郡上の千代とかなり相似する部分があると思う。結果として司馬さんは、かなり正確な造形をしていたのではないだろうか。
取材を終えて 郡上踊り、奥美濃の小京都…普通、郡上八幡に対して思うところはこんなところだろうか? 実際に訪ねてみて、豊かな緑、美しい水、生きている古い街並み…考えていた以上の感銘を受けた。しかしながらそれ以上に魅力を感じたのは八幡町の人々だ。 ところで、重里記者と私は、佐藤先生と川上さんに、吉田川沿いのレストラン、新橋亭でごちそうになった。皆で川上さんの好物だという唐揚定食を食べた。実は私も唐揚が好きで良く食べるが、新橋亭のものは、カラっと揚がり、中はジューシーで、本当に美味しかった。 |
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