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『功名が辻』取材レポート 郡上八幡編(上) (中) (下) 掛川編 高知編 |
『司馬遼太郎を歩く』 取材レポート
『功名が辻』
四回目を迎えた毎日新聞連載『司馬遼太郎を歩く』の取材レポート。
名作『功名が辻』を取り上げます。
『功名が辻』について
織田、豊臣、徳川の時代と生き延び、遂に土佐24万石(正式には20万石)の太守になった山内一豊とその妻の物語。司馬作品の中では珍しく女性を主人公にしている。
山内一豊は織田信長の配下の貧しい武士。千代を娶り、夫婦協力して厳しい戦国の世を生きぬいていく。
従来の一豊の妻は名馬の逸話から、賢妻の鏡のように評されていたが、司馬遼太郎の”千代”は知的で感受性に富んだ女性として生き生きと描かれ、一豊も人間的で血肉の通った描かれ方がされている。
取材を通して一豊と千代の足跡を辿ってみた。注・山内一豊夫人の名は「千代」とも「まつ」とも言われますが、不明であり、一般的には「見性院」が使用されています。
『功名が辻』では「千代」が使用されていますが、このページでは各文章の流れに併せて、「一豊の妻」「見性院」「千代」を併用しています。
司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『功名が辻』郡上八幡編(上)
〜千代の故郷を探して〜
平成14年10月24日UP
(取材日:平成14年9月14日)
| 郡上八幡編(上) | 1.郡上八幡と一豊の妻 2.高橋教雄先生にお話をうかがう |
| 郡上八幡編(中) | 3.郡上八幡を歩く (1)山内一豊夫妻の銅像 (2)郡上八幡城 (3)慈恩寺 (4)古い街並みと宗祇水 |
| 郡上八幡編(下) | 4.佐藤とき子先生のお話 5.山内家と美濃のつながり 6.「千代」を考える (1)郡上八幡説から見た「千代」 (2)司馬遼太郎が造形した「千代」 (3)二つの「千代」像を比較する |
1.郡上八幡と一豊の妻
美濃太田駅から長良川鉄道に乗車する。一両編成の列車はゆっくりと平野の中を進み、やがて緑と清流に沿って進む。乗車して約1時間20分、ようやく懐かしい感じのする郡上八幡駅に到着した。
郡上踊りで全国的にも有名な郡上八幡だが、近年山内一豊の妻の出身地として注目されている。
郡上八幡駅
清流・吉田川一豊の妻(『功名が辻』では千代)の出身地は現在でもはっきりとはわかっていない。主な説を上げてみると
(1)若宮氏説(近江)…千代は近江の浅井氏の家臣・若宮喜助友興の娘。一豊の父は尾張の岩倉織田氏の家老だったが、織田信長に滅ぼされ、一豊と母は流浪し、近江の長野氏のもとに身を寄せる。そこで一豊の母は裁縫などを教え、弟子の中でも美しく賢明な千代を一豊の妻にした。
(2)不破氏説(美濃)…千代は美濃の豪族、不破氏の出身だった。
さらに、若宮氏が出身だが、幼くして父が亡くなったため、母方の親類である不破氏に引き取られたという、上記(1)(2)を併せた説もあり、司馬遼太郎はこの説をベースに『功名が辻』を書いている。
この他にも細川氏説、美濃の豪族安東氏説などもある。ところが近年注目されているのが、同じ美濃でも郡上八幡遠藤氏説。郡上一帯を治めた遠藤盛数の娘であり、母は名族・東(とう)氏の出だという。
『功名が辻』が発表されたのは、昭和38年、一方郡上八幡説が一般に知られるようになったのは昭和四十年代。『功名が辻』は郡上八幡説が世に出る前に書かれた小説であり、司馬さんとしては、その時点で知られていた近江若宮氏説と美濃不破氏説を組み合わせたのではないかと思われる。さて、郡上八幡説で着目されるのは、母方の東氏。東氏は遡れば坂東八平氏の一つ・千葉氏に辿りつく。源頼朝の旗挙げ以来の功臣・千葉常胤の六男、胤頼が下総国東庄を領したことにはじまる。胤頼の子、重胤は藤原定家に和歌を学び、歌人としても有名な鎌倉幕府三代将軍・源実朝の側近でもあった。
三代胤行は、承久の乱の戦功で美濃の領地を加えられ、根拠地を下総から美濃に移す。胤行は、藤原為家(定家の子)の娘を妻とした。また、東氏11代・常縁は古今集を極め、秘伝の解釈である古今伝授の創始者であり、連歌師の宗祇に古今伝授を授けている。東氏は、武家の中ではトップクラスの知的名門と言っても良い。
東氏略系図遠藤氏はその東(とう)氏の一族だと言われ、遠藤盛数は、東氏16代・常堯を駆逐して郡上を支配した。盛数の妻は東氏の出なので、妻の実家を追ったことになる。
しかしながら、遠藤盛数は若くして亡くなり、慶隆が幼くして後を継いだ。慶隆の母(=東常慶の娘)は、遠藤氏の勢力的安泰をはかるため、娘を連れて関の永井氏に再嫁している。
その後織田信長と斎藤氏の戦いのとき、永井氏は斎藤氏に付き、滅びる。遠藤慶隆の母と妹は戦国の世を流浪することとなった。
小説では近江説が取られているが、重里記者について、あえて郡上八幡を訪れてみることにした。
2.高橋教雄先生にお話をうかがう
千代は郡上八幡の出身なのか? 近年は郡上八幡説が有利と言われるが、その理由・背景を知りたい。そんな思いで、郡上八幡の代表的な郷土史家である高橋教雄を訪ねた。高橋先生は大乗寺というお寺の御住職をされている。
郡上八幡の町は長良川に支流の吉田川が注ぎ込むあたりに開けている。その吉田川からさらに入った小さな小駄良川沿いの山麓に大乗寺はある。寺の周囲は緑が濃くなり、小駄良川はさながら渓流の入口のような趣もある。
大乗寺
山門高橋先生からは、主に古文書に関する幾つかの資料を見せていただいた。一豊の妻の郡上八幡出身説が浮上したのは、郡上一帯を治めた遠藤氏の記録・『遠藤記』によるという。そこには遠藤盛数の娘の横に「山内対馬守室」と記されている。
一豊の妻の出自に関する古文書としてはこの『遠藤記』など郡上関連のものしか出ていないという。資料という点からは、他の出身地には明確な資料はあらわれていない。これが郡上説が有利な点だという。
しかしながら、高橋先生のお話では、『寛永重修譜』(幕府に出した家系図)の遠藤氏には、「山内氏の室」という記載は見られないということで、この点で一豊夫人の出身地が郡上八幡だと言いきることができないということだった。それでは、資料(古文書)以外の点からみたらどうなのだろう?
高橋先生のお話では幾つかの「傍証」的な資料があるということだ。(1)山内氏と遠藤氏
遠藤氏の出身で、土佐の山内家に仕官した人物がかなりいるということ、それも150石程の身分で、奉行クラスの人物もいるということだった。その一人は見性院(一豊の妻)の死の直後に山内家に仕官しているということだった。一豊の妻が遠藤氏の娘で、その縁で仕官したという推測ができる。(2)古今和歌集
山内家には古今和歌集が伝わっているが、遠藤家にも同様に古今和歌集が伝わっている。遠藤盛数の妻は名門・東氏の出であり、東氏は古今和歌集に密接な関わりがあった。一豊の妻が遠藤氏の娘なら、その出所がわかりやすい。すなわち、東氏→(遠藤氏)→山内氏というラインで古今和歌集が伝わったのではないか、ということだ。(3)「見性院」という号
一豊の妻は、一豊の死後出家して「見性院」と称された。実は遠藤盛数の子・慶隆の号は「乗性院」。「性」の字が共通している。一豊の妻が同じく遠藤盛数の子(義隆の妹)であったために、二人の号が共通した字を使っていたという推測が成り立つ。(4)慈恩寺開山について
郡上八幡の名刹・慈恩寺は臨済宗の寺院だが、遠藤慶隆が開基となり、妙心寺より半山禅師を迎えて開山した。半山禅師は「心頭滅却火もまた涼し」の言葉で知られる快川禅師の弟子でもある。
その半山禅師を迎える仲介役になったのは同じ美濃の豪族・稲葉貞通だというが、その稲葉氏と半山の間に仲介役がいたのではないか、ということだった。京に住み、禅宗に対する造詣も深く、半山とも親しい…見性院(一豊の妻)が遠藤慶隆の妹であれば、ここにうまく当てはまり、慈恩寺開山の経緯がわかりやすくなる。つまり見性院が、京における遠藤慶隆の文化の仲介役だった可能性があるということだ。高橋先生は高校の歴史の先生をされていたということで、順を追い整理された非常にわかりやすいお話だった。また、一豊の妻・郡上八幡出身説については、幾つもの傍証をあげられながらも、慎重な姿勢を示され、歴史に対しては厳密な姿勢で臨まれているのだ、という印象を受けた。
帰り際、大乗寺の境内を拝見した。簡素で質朴。飾り立ててはいないが、周囲の自然と併せて清々しい気持ちになった。
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