
| 『司馬遼太郎を歩く』 (INDEX)へ戻る |
街道をゆく−南伊予・西土佐の道− 伊予吉田の風景(上)(下) 宇和島の風景 |
街道をゆく-南伊予・西土佐の道-
伊予吉田の風景(下)
| 目 次 | ![]() |
|
| 上 | 1.武家屋敷と喫茶店 2.法華津屋 3.八幡河原 |
|
| 下 | 4.海蔵寺と安藤神社 5.武左衛門の故地・日吉村 6.伊予吉田点描 7.司馬遼太郎と伊予吉田 |
|
![]() |
![]() |
| 伊予(愛媛県)略図 | 伊予吉田地図 |
4.海蔵寺と安藤神社
JR予讃線で宇和島へ向かう途中、伊予吉田駅を過ぎたあたりの左手に、線路に隣接してお寺が見える。ここが海蔵寺、安藤継明の墓所がある。
線路を越えて境内に入ると、本堂の手前に小さなお堂がある。お寺の建物は建て替えられたが、ここだけはそのままだという。
![]() |
![]() |
| 海蔵寺本堂 | 古くから残るお堂 |
安藤儀太夫は吉田の海蔵寺に葬られたが、その廟所には参詣人が多く、参道には店などができて賑わったという。山家清兵衛をまつる宇和島の和霊神社と同様、江戸期いっぱいにぎわい、明治六年には安藤神社もできた。
農民に愛情をもった清潔な政治家を待望する気分が南伊予一般に地熱のように存在したからこそ、和霊さんや安藤さんのような祭祀現象がうまれたのだろう。
安藤継明の廟は、海蔵寺の裏手、墓所の奥に位置する。安藤家の家紋の幕が掛けられていた。
『南伊予・西土佐の道』でも伊達家以前、宇和島周辺では悪政が続き、民力が疲弊していたことが記述されている。山家清兵衛や安藤継明が祭られたのも、このような背景があったのではないか。
![]() |
![]() |
| 安藤継明廟 | 安藤家の家紋が入った幕 |
廟の下の石垣 かつてはこのあたりにも店が出ていたのだろうか。 海蔵寺庭園
安藤神社は、吉田の町中にある。安藤家の屋敷跡だそうだ。かつては神主さんもいらしたそうだが、数年前から無人の社になっている。現在は町中の静かな公園といったたたずまいを見せていた。
![]() |
| 安藤神社 吉田の町中にある |
5.武左衛門の故地・日吉村
安藤継明のゆかりの寺社を取り上げたら、一揆を指揮した武左衛門について述べなければならないだろう。
一揆側は、指導者を隠したが、吉田藩は巧みに首謀者・武左衛門を探しあてた。
一揆はどこの藩でも法度になっている。
解決したとはいえ、指導者は殺さねばならないが、一揆の側はむろん心得ていてたくみに隠蔽してわからないようにしていた。吉田藩ではそれを巧みに探索し、一揆勃発の翌年、大野村の武左衛門ほか二十余人をとらえた。武左衛門だけは断罪、他は永牢(終身牢)に処し、安藤儀太夫の十七回忌のときに大赦して親族にひきわたした。
武左衛門は、吉田藩領の大野村(現在は日吉村になっている)の出だが、この日吉村は、実は高知県との境に接している。山一つ越えれば土佐に出ており、幕末に吉村寅太郎等を輩出した檮原も近い。
伊予吉田藩というと、宇和島の北隣、吉田湾に面した一帯を想像するが、実はその藩領は東に伸びて、土佐の県境にまで達していたのだ。
秋田さんと伊予吉田を歩いた翌日、宇和島のタックさんと日吉村を訪れた。
宇和島から険しい山の中を通る。現在は幾つものトンネルが開通し、道路も整備されたが、かつては大変な難道だったようだ。この山の奥から一揆は組織されたのか、と思う。
日吉村では、明星ヶ丘の武左衛門一揆記念館へ。
武左衛門の出身地については、土佐などいくつかの説があるそうだ。
日吉村は日本で初めてメーデーが行われた地だという。武左衛門の精神が今も引き継がれているということだろうか。
![]() |
![]() |
| 明星ヶ丘の記念碑 | 武左衛門を祭ったお堂 |
お堂の内の像 下部の文字には安藤継明の名も・・・ 武左衛門一揆記念館
(お休みにもかかわらず見学させていただきました)
武左衛門の像(武左衛門一揆記念館) 同志たちの像(武左衛門一揆記念館) *武左衛門及び同志たちの像は、日吉村教育委員会の方の許可をいただいて掲載させていただいております。転載は御遠慮ください。
司馬さんが吉田藩を舞台にした小説に『重庵の転々』という小説がある。(以前「司馬遼太郎を歩く」の取材レポートで取り上げた)
土佐から伊予吉田藩の山中に棲みついた医師・重庵(「重庵」というのは小説で司馬さんが使用した名称で、モデルになった史実の人物は「山田文庵」)が、初代吉田藩主・伊達宗純の御殿医になり、やがて信頼を得て家老にまで登りつめ、やがて弾劾されて仙台伊達家に引き取られて元の医者として余生を生きる。
山田文庵が住んでいたという伊予の山里も、もしかしたら日吉村だったのかも知れない、と思う。
武左衛門が土佐の出身だったということが、私には妙にひっかかるものがある。仮に土佐の出だとしたら、一両具足の末裔だったかも知れない。同じことは山田文庵にも言えるのかも知れない。
山田文庵のありあまるエネルギー、武左衛門もまた、一揆の統率者となる程の人物なら、単なる農民でなかった可能性もあるのではないか。(あくまでも私の想像で裏づけはないが)
日吉村に隣接する檮原は独立の気風が強く、幕末には吉村寅太郎等を輩出している。武左衛門にしても、山田文庵にしても、このような風土と、なにかしら関係があったのかも知れない。
6.伊予吉田点描
一乗寺
万治二年(1659)、日要上人開山、日蓮宗の寺。伊予吉田駅の東方、吉田の山の中腹にある。吹く風が涼しかった。一乗寺には鬼子母神像があり、この像が収められたお堂の天井の絵画は精巧を極める。吉田では、何気ない場所にも文化財がちりばめられている。
![]() |
![]() |
| 一乗寺本堂 | 鬼子母神堂 |
![]() |
| 鬼子母神堂天井の装飾 |
医王寺
吉田の市街地からやや北に向かった土地の高台にある天台宗の寺。嘉禎年間(1235〜1237)の開基だが、戦乱により荒廃。応永二十二年(1415)再興され、宇和に本拠を置いた西園寺家の崇敬を受けた。その後再びしばらく荒廃したが、延宝五年(1677)、吉田藩初代藩主・伊達宗純により鬼門鎮守のため薬師堂が造営された。
華美なお寺ではないが、街の雰囲気にに溶け込み、どこか親しみやすい雰囲気を持ったお寺だった。
![]() |
![]() |
| 医王寺本堂 | 本堂の額 |
大乗寺
吉田伊達家の菩提寺であり、豊かな緑に囲まれた寺の敷地に入ると、心なしか涼しく感じた。代々藩主の墓がある。
さらに、私たちに興味深いのは、ここに伊達騒動の主要人物、伊達兵部の正妻と三人の妻の墓があることだろう(兵部本人は土佐に、嫡子・市正宗興は小倉に流された)。三人の子は後、赦され、吉田で生を全うした。
吉田藩はその成立当時、宇和島藩と様々な軋轢があったといわれる。その中にあって、仙台伊達本家の兵部は、宇和島藩との間に入って、吉田藩のために様々な斡旋を行った。兵部の一族が吉田に引き取られたのはこのことに対する、吉田側の報恩の意味があったとされる。
![]() |
![]() |
| 大乗寺・門 | 本堂 |
![]() |
![]() |
| 地蔵菩薩 | 伊達兵部一族の墓 |
![]() |
![]() |
| 吉田伊達家墓所 | 初代藩主・宗純墓 |
7.司馬遼太郎と伊予吉田
『南伊予・西土佐の道』において、司馬さんが主題としたのは、武左衛門一揆だった。吉田藩の歴史を考える上で、最もドラマチックな展開を見せた出来事だったのだと思う。その一方で、司馬さんが吉田を舞台に小説にしたのは山田文庵をモデルにした『重庵の転々』だった・・・。
素人目には、なぜ武左衛門一揆を小説化しなかったのか、とも思うが、司馬さんには司馬さんの考え方があったのだと思う。もっとも、秋田学芸員は、安藤継明の人物像には今ひとつ明確ではなく、山田文庵の一件は吉田藩の歴史を考える上で重要な意味があるという。それは恐らく、本家である宇和島藩との関係に由来するのではないか。(武左衛門一揆についても、宇和島藩の陰が見え隠れするが、文庵の事件の方が藩成立当初の事件で、より直接に藩の成立に関わっているという意味で)
司馬さんは『南伊予・西土佐の道』で武左衛門一揆を書き、『重庵の転々』を描いたことで、吉田三万石の転換期を象徴する事件を描いた。そこに吉田藩の成立事情、宇和島藩との関わりが常に見え隠れするような気がした。
| 『司馬遼太郎を歩く』 (INDEX)へ戻る |
『街道をゆく−南伊予・西土佐の道− 伊予吉田の風景(上)(下) 宇和島の風景 |