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『司馬遼太郎を歩く』
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街道をゆく−南伊予・西土佐の道−
伊予吉田の風景(上)(下)
 宇和島の風景


街道をゆく
-南伊予・西土佐の道-


 

はじめに

『街道をゆく』シリーズの中でも「南伊予・西土佐の道」が好きな人は多いという。
実は、私もその一人だ。司馬さんの南伊予への愛情が溢れ、南伊予の暖かな人と風土が描かれている。
宇和島は長崎と並んで、司馬さんが最も愛した街だと言われる。司馬さんの代表作『坂の上の雲』では伊予松山が舞台となる。
司馬さんは伊予という土地が好きだったのだと思う。


伊予吉田の秋田通子学芸員(平成14年の「司馬遼太郎を歩く・重庵の転々」でお世話になった)と伊予吉田を歩き、武左衛門一揆(安藤継明)関係の史跡を巡った。

++管理人より++
「南伊予・西土佐の道」では、この他砥部、大洲、卯之町が舞台になっています。大洲は旅日記で取り上げたものを再編集し、砥部と卯之町はできるだけ早い機会に訪れてコンテンツを作りたいと思います

街道をゆく-南伊予・西土佐の道-
伊予吉田の風景(上)

平成15年9月25日UP
(取材日:平成15年9月8・9日)

法華津峠を南にくだりながら、南伊予はまことに山ばかりという感が深い。
くだりきると、急に小さな町がひらける。
北宇和郡の吉田町で、県立吉田高校の所在地であり、宇和島伊達家の支藩(三万石)の治所でもあった。町には吉田藩時代の武家屋敷がまだいくつか残っていて、新興の町とはちがった雅趣をもっている。
(『南伊予・西土佐の道』より)
目 次
1.武家屋敷と喫茶店
2.法華津屋
3.八幡河原
4.海蔵寺と安藤神社
.武左衛門の故地・日吉村
.伊予吉田点描
7.司馬遼太郎と伊予吉田
伊予(愛媛県)略図 伊予吉田地図


1.武家屋敷と喫茶店

『南伊予・西土佐の道』では、司馬さんは北の卯之町から法華津峠を通り、吉田町に入る。
吉田町は、宇和島の北に位置する。かつては小さいながらも、三万石の城下町。宇和島藩の分藩だった。
吉田では、主に藩の成立と武左衛門一揆について書かれている。
町に入った司馬さんは、武家屋敷が残る街並みの喫茶店に入っている。
武家屋敷町のなかに駐車場つきのコーヒー屋さんがあって、そこへ入った。
(中略)
コーヒー屋さんの窓ガラスを通して見える向いは長屋門である。十年前に一度、それ以前に一度、この吉田の町を通ったが、そのころはこういう店もなく、江戸時代にまぎれこんだように静かだった。
コーヒーを飲みながら武左衛門一揆のことを考えた。


司馬さんがコーヒーを飲んだ喫茶店は健在 窓からは武家屋敷が見える
司馬さんが見たのもこのアングル?


喫茶店の前の武家屋敷
喫茶店の名は「シルビア」。古風な町の中にあって、意外にモダンな外観だった。司馬さんの「そのころはこういう店もなく」という部分にその意外さが表われているような気もする。
9月8日は残暑が厳しい一日だったが、喫茶店の中は冷房が効いていて快適だった。秋田さんが窓際の席を案内してくれた。
アイスコーヒーを飲みつつ、窓からは武家屋敷が見える。司馬さんもこの窓から見ていたのだろうか、と思った。
2.法華津屋
武左衛門一揆とは、伊予吉田藩の成立事情を関わる部分があるのではないか。
伊予吉田藩は、宇和島藩の支藩である。宇和島藩の始祖は伊達秀宗。伊達政宗の長子だが、豊臣秀吉の猶子となり、いわば豊臣家との縁の深さを憚って、政宗は秀宗を仙台藩の後継者にしなかった。その秀宗のため家康に運動して宇和島藩十万石を得たという。
その秀宗の子が吉田藩祖・宗純。


宇和島藩自体、成立当時は台所事情が苦しかったというが、支藩の吉田は、更に苦しかったようだ。
その苦しい財政をしのぐために、製紙のために楮を植え、紙漉きも行った。藩の専売制であり、これを富商・法華津屋に行わせた。法華津屋の儲けは莫大。一方農民はただ働きに近く、大きな負担を負うことになった。
ここで起こったのが武左衛門一揆だ。


一揆を組織したのは山奥の大野村(現・日吉村)の農民・武左衛門。
武左衛門は、一揆の標的を法華津屋に絞った。大きな縄を柱に結わえ、法華津屋の建物を倒そうとした。
結局一揆の衆は宇和島藩に向かい、法華津屋は倒されなかったが、一時期農民たちの標的になったことは間違いない。
明治初年の農民一揆にいたるまで一揆が豪商を襲う場合、家屋のうちこわしという(こんにちになってみればユーモラスな感じさえある)形式がとられることが多かった。この武左衛門一揆はその典型といってよく、大綱を棟木などにひっかけて、何百人もが大綱にとりつき、声をあわせて倒壊させてしまうのである。
吉田町の一角、魚棚町に、今も藩政期の豪商・法華津屋の本宅跡が残る。法華津屋の建物は、長らく吉田町の魚棚に建っていたが、店の部分は「国安の郷」に移築・復元され、本宅部分は今も魚棚町に残っている。現在お住まいの方の御好意で見学させていただくことができた。
この建物は寛政四年(1792)、武左衛門一揆の標的となった建物だ。


「法華津屋・本宅跡」・・・私は外観だけでも見たいと思い、秋田さんに連れていってもらった。
建物は、重厚に塗りこまれ、道路から見て左側が入口(土間)になっている。
秋田さんは土間から入ると、その横の部屋にいらした御夫婦に声をかけ、見学をお願いする。
暑い日ではあったが、旧家は天井が高くて風通しも良く、どこか涼しい。こんな御宅なら冷房もいらないだろう、と思った。
御夫婦は少し準備をされて、門を開け、玄関から迎えてくださる。
法華津屋本宅は、御夫婦の御両親の代に買い取り、昭和末まで旅館として営業されていた。


玄関の板の間から入ると、右側には三間続きの広い座敷が広がる。欄間も見事、後藤新平の額が飾られている。


旧法華津屋本宅 三間続きの座敷



凝ったつくりの欄間。法華津屋の歴史を、吉田の歴史を見守ってきた
ただ、悲しむべきことに、先年の芸予地震の被害が大きく、柱と建物自体が若干ゆがみ、壁にも所々ひびが入っている。吉田町は、河口を埋め立てて町が造成された。それ故地盤が弱いらしい。修復しようにもこれだけの建物になると、簡単には直すことはできない。個人の力では限界があるようだ。
それでも崩壊せずにいるということは、建物自体がいかに強固なものであるかを示しているのだと思う。


さらに進むと、橋がかかった庭が見える。その反対側には離れのような建物が見える。こちらは旅館の営業を始められてから建てまわされたのではないかと思う。
三間続きの座敷の先には、奥座敷がある。ここは上段の間だった。かつてはこの先に茶室があり、藩の殿様も利用していたという。
そのため、かつてはこの部屋の床(畳)には段差が付けられていて、現在も壁にその痕跡が残っている。
現在、この部屋の先には塀があるが、その先に茶室があった。それは見事なものだったらしい。


上段の間の柱(南天の木で作られている) 庭園部分(かつてはこの先に茶室があった)

*旧法華津屋本宅内の写真は、建物を所有されている方の許可をいただいて、掲載しています。転載は御遠慮ください。

3.八幡河原

はじめは、法華津屋を標的にした武左衛門一揆だったが、結局は宇和島に出向き、本藩をゆさぶる方法に出た。このあたり、吉田三万石を本藩に併合しようとした本藩の思惑があったとも言われる。
農民たちは、吉田藩領を出て、須賀川沿いの八幡河原(現在の宇和島市北部)に集結した。
吉田藩側は慰撫したが、一揆側は一度藩にだまされており、役人の言うことなど聞くはずもなかった。
家老の安藤儀太夫継明は八幡河原に赴き、一揆側を慰撫する。
かれはこの朝(寛政五年二月十四日)、一揆が屯集している八幡河原へゆき、一僕をつれて堤の上にのぼり、代表数人をよんで昨年、一揆をだましたことを詫び、ついてはもう一度願書を出し、裁断があるまで帰村してくれ、と言い、堤上に挟箱を置き、その上に腰をおろして切腹した。一藩の家老が農民一揆に詫びて切腹するなど、江戸期にも例がなかったように思える。山家清兵衛以来の農民に対する伝統的態度が、安藤においてなお生きていたとみていい。
この日、安藤は家族の者には何もいわなかった。朝食のとき酒を出させ、妻子にも飲ませたらしい。多年従ってきた若党千右衛門にだけはうちあけ、かれ一人従えて八幡河原へ行った。介錯はこの若党がおこない、丁寧に首をあらった。挟箱のなかには首桶まで用意されていた。
安藤継明は、このとき47歳。百姓の負担を軽減しようとしたが、他の家老たちの反対にあい、結局一揆がおきたということらしい。
農民たちも、安藤継明の最期を見て、解散した。


安藤継明切腹の場の碑 「安藤継明忠死之地」の碑銘が 碑の横に据えられた句碑


八幡河原にはその名の元になった立派な神社がある。神社には伊吹の大木がある。この木は伊予守に任ぜられた源義経の命で植えられたという。


八幡河原の風景(須賀川) 八幡神社(手前の伊吹は源義経が植えさせた)
感動的な安藤継明の逸話だが、秋田さんのお話では、その人物像については今ひとつ明確になっていない部分があるという。
司馬さんは、感動的に描写しているが、その背景には未だ知られない部分があるのだと思う。
『司馬遼太郎を歩く』
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