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『関ヶ原』を観る!
〜加藤剛主演・司馬遼太郎原作〜

平成15年5月21日UP


DVDタイトル(ken-youさん御提供)

INDEX
1.ドラマ『関ヶ原』の魅力
2.西軍は何故負けたのか
3.さらば、友よ 〜大谷吉継のこと〜
4.石田三成が残したもの

++ はじめに ++
ドラマ『関ヶ原』・・・放映されたのは1980年の元旦。TBSが30周年記念として総力をかけた時代劇だった。原作は司馬遼太郎。このあたりにもTBSの熱意が読み取れる。
実は私はこの作品を観て感動し、原作を読んだ。当時黒澤映画に夢中になっていた私には、三船敏郎さん演じる島左近に大変あこがれたものだ。そして、実はこれが司馬作品との出会いだった。だから、この作品は私にとって重要な意味を持つ。
『関ヶ原』は私にとって司馬作品の原点、ドラマ『関ヶ原』は司馬作品をメインにしている私のHPの原点とも言える作品だ。

このドラマに「再会」することになったのは、リンク先のken-youさん(歴紙の扉〜史跡を訪ねて〜)からの情報とお勧めだった。6時間を越える長編だけあって、少し値は張るが、上記のように私には重要な意味を持つドラマなので、どうしても観てみたいと思った。
さて、ようやく手にいれたDVD、早速感想を書いてみたいと思う。
1.ドラマ『関ヶ原』の魅力
(1)豪華キャストと演技
『関ヶ原』のポイントの一つは、当時最高と思われるキャストを配したことだろう。
加藤剛(石田三成)、森繁久禰(徳川家康)の両主役を軸として、三船敏郎(島左近)、宇野重吉(豊臣秀吉)、三國連太郎(本多正信)、丹波哲郎(福島正則)、杉村春子(北政所=おね)、沢村貞子(芳春院=まつ)、栗原小巻(細川ガラシャ)、三田佳子(淀君)、若手では三浦友和(宇喜多秀家)、国広富之(小早川秀秋)・・・誰を取っても主役が務まる。脇役を取っても、笠智秋、浦辺粂子等よくこれだけの名優を集めたのだと思う。今では鬼籍に入られた名優、あまりテレビでお見かけしなくなった名優も数多く出演している。
+ 加藤剛 +
このドラマを感動的にしているのは、まず加藤剛ではないかと思う。
「義の人」石田三成。あまりに理が先行し、加藤清正、福島正則を始めとする多くの武将に憎まれてしまうが、豊臣家のために一途に生きる。司馬さんは『関ヶ原』を描くにあたって、徳川家康と対比させる意味で、「義の人」を際立たせて書いていると思う。その”司馬三成”を加藤剛はまっすぐに演じている。それどころか、加藤さんの真面目で誠実なキャラがさらに司馬三成の魅力を増幅させ、「義の人」が鮮やかに演じられる。加藤さんが演じると、どこか「小憎らしい」はずの三成でも、あまりマイナスに感じない。実際の三成よりも、司馬+加藤剛コンビによって二段階ほど魅力がアップしているのではないだろうか。
このDVDの中で、司馬さん、森繁さん、加藤さんとの対談が収録されているが、加藤さん自身も三成に対して相当思い入れがあり、共感しているようだった。司馬さんも加藤さんが三成を演じて嬉しかったのではないだろうか。


+ 森繁久禰と三國連太郎 +
一方の東軍では森繁「家康」と三國「正信」が軸となる。三國氏の演技は得体の知れない懐の深さを感じさせる。森繁家康と絶妙のコンビネーション、というよりも森繁を食っているような気がする。森繁は名優だが、どこか軽妙なキャラを持つ。そこが良い味となり、徹底的なリアリストである家康を、一面暖かみのある人物として描く。(鳥居彦衛門に伏見城を残るように頼む場面など) だが、三國正信は徹底して策謀の人を演じて、余す所がない怪演技だ。加藤「三成」と正しく好対称。第二の主役と言っても良いだろう。


+ 杉村春子と沢村貞子 +
女性陣に目を移すと、まず杉村春子(北政所)、沢村貞子(芳春院)という二大ベテラン女優が共演しているのが目立つ。私としては杉村「北政所」よりも沢村「芳春院」の演技が印象に残った。芳春院(=まつ)というと、昨年のNHK大河ドラマ『利家と松』の松島菜々子のイメージが強いが、沢村貞子のざっくりした、というのか、達観したような演技ぶりは、実際の「まつ」もあんな感じだっただろうと思わせるものがあった。特に有名な、家康の人質となるシーン。躊躇する息子に対し、現実を真っ直ぐに見据えて決断する。利家と二人で激動の時代を潜り抜け、前田家を築いたという松は、きっと沢村「芳春院」のように肝の据わった女性だったのだろう。そう思わせた。


+ 世界のミフネと栗原小巻 +
さて、私が個人的に嬉しかったのは黒澤映画で数々の名演技を見せた世界のミフネこと三船敏郎さんがあの武士の典型・島左近を演じていることだ。このとき三船さんは60歳。少しお年を召された観はあるが、さすがに貫禄は十分。冒頭の立回りなども往年の『用心棒』や『椿三十郎』を彷彿とさせる。私などはこのドラマで島左近=三船敏郎のイメージがしっかりと固まり、隆慶一郎の『影武者・徳川家康』を読んだときでも、左近の活躍ぶりを三船さんでイメージしていたような気がする。(私の勝手な想像だが、隆慶一郎は元々映画の脚本を書いていた人でもあり、もしかしたら、始めから三船さんを想定しながら小説を書いていたのかも知れない) この後、三船さんは次第に第一線を退いて行く。往年の黒沢映画の主役らしい演技を見せた、最後の輝きだったように思う。
そして、栗原小巻(細川ガラシャ)。1970代では最高の美人女優だった。松坂慶子(初芽)にも決して負けない美しさ。清楚さではむしろ勝っている。今の時代、栗原さんのような雰囲気を持った女優さんはいないのではないだろうか。
(2)原作と脚本
このドラマの構成、雰囲気のキーポイントは、司馬遼太郎原作とうい点ではないだろうか。

司馬さんの小説、登場人物は非情にリアリティ、存在感を感じさせる。(リアリティ=現実そのまま、という意味ではないが)
さらに現代劇にも通じるテンポの良さ。長時間のドラマにも関わらず、まったく退屈することなくドラマの世界に引き込まれた。
脚本は早坂暁。ダウンタウンヒーロズなどの小説も書いているが、歴史物の脚本家としては屈指の人物だと思うし、恐らく司馬作品との相性は抜群なのではないかと思う。(早坂さんは、山田太一、鎌田敏夫、市川森一等と並んで、私が興味を持つ脚本家の一人だ。彼らの共通点は、単なる脚本家というよりも、創造性を持つ=クリエーターということではないかと思う)
豪華なセット、大掛かりなロケ、配役の妙と並んで、原作と脚本の持つ力にも注目して良いのではないかと思う。また、その魅力を活かした演出も素晴らしいのではないか。

2.西軍は何故負けたのか

石田三成と徳川家康、この二人の戦いは、客観的に見れば最初から勝負がついていたというのが一般的な見方だ。劇中や司馬さんの解説でも触れられるが、三成は佐和山19万石、秀吉側近だったとはいえ、秘書室長のような立場でしかなかった。(秀吉は三成に百万石を与える考えもあったのだが、その為には領地は遠く九州や奥州になってしまう。三成は石高は低くとも、政権の中枢で実力を発揮する方を選んだのだと言う)
それに対し家康は250万石。秀吉亡き後の最大の実力者、信長時代からのキャリアも他を圧する「東海一の弓取り」である。司馬さんは豊臣株式会社の「副社長」と評したが、むしろ豊臣株式会社と提携した企業の最大手の代表取締役と考えた方が良いのではないか。


考えてみれば、豊臣家には不幸が続いた。まず、大和大納言秀長の死。温厚で諸大名からも一目置かれ、又信頼もされていた秀長。彼が生きていれば、朝鮮出兵も避けられたかも知れないし、諸侯の心も豊臣家からはあれほど離れていかなかったかも知れない。
次いで小早川隆景の死。隆景は毛利家の人間だったが、秀吉の良き協力者だった。関ヶ原の戦いでは、結局毛利側の吉川が家康に内通し、毛利は戦に参加しなかったし、隆景の養子の小早川秀秋は寝返った。隆景の死が如何に大きな損失だったかがわかる。
第三に、蒲生氏郷の死。豊臣政権下で最大の器量を持ち、天下の諸侯も及ばない実力を持っていた氏郷の死もまた豊臣政権には痛手だった。氏郷は会津若松を領していたがそれは家康と、伊達政宗への抑えの役目、東国での要の役割だったはずだ。
こうして見ると、秀吉が亡くなった時点で、豊臣政権下で家康と渡り合える器量の持ち主は殆ど姿を消していた。せいぜい前田利家ぐらいだが、利家も時をおかずに亡くなる。後に残り、気骨のある大名家は上杉と宇喜多くらいになってしまったが、上杉は謙信以来の名門であり、豊臣家中とは言い難い面があったと思う。私などは、上杉に200万石くらい与え、宇喜多を100万石にしておけば・・・と思うが、加藤、福島、細川、浅野、黒田といった面々もいたし、この二つだけを大きくするのは無理だったのかも知れない。


さて、関ヶ原の戦いに戻ろう。私がドラマ、原作ともに歯がゆい思いをしたのは、淀君が秀頼を出陣させなかったことだ。秀頼さえ西軍の陣にいれば、少なくとも加藤・福島は東軍で戦うことは無かったと思う。この両者がいなければ東軍は家康直属軍しか働けなかったのではないかと思うが。
さらに、三成の小早川秀秋と島津への配慮が少なかったこと。劇中でも島左近が「金吾殿には気を付けて」というが、三成は自分のみならず他人までも「義」で動くと思いこんでいた。また、島津にも夜襲を断った時点で愛想を尽かされてしまった。このあたり、三成のキャラクターの問題にもなってしまうが、西軍の主力が毛利、宇喜多、小早川、島津であった以上、小早川の寝返りと島津の不参戦は口惜しい。
毛利は既に吉川が内通しており、三成の力ではどうしようもなかった。百歩譲って小早川も難しかったかも知れない。そうすると、九州の雄・島津の不参加はなんとしても痛い。結局働いたのは石田・大谷・小西隊と、大軍では宇喜多。これでは三分の一程度の力にしかならなかったと思う。


歴史を考える上で、関ヶ原の戦を考える上で、最も基本的な疑問は、豊臣家の大名たちが何故に家康の元に走ってしまったのか、ということだと思う。細川、黒田は元々秀吉の協力者的存在からスタートしたので、臣従する意識はそれほど高くなかったと思うが、福島、加藤は秀吉の親戚筋にあたり、子飼の大名だ。
一般的には、淀君と北政所の対立が、尾張派(武断派=加藤、福島・・・)と近江派(官僚派=石田、増下・・・)の争いになり、そこに家康がうまくつけこんだと見られている。
とすれば、尾張派が私淑する北政所がキーパーソンになったと思う。

北政所も秀吉亡き跡、世は乱れ、それを最小で収拾するには家康が天下を取るのが良いと思ったのだろう。豊臣は一大名として存続すれば・・・そんな思いがあったのではないだろうか。だが、果たして彼女も大坂夏の陣・冬の陣で起こる事態は予想していただろうか?
後世から振り返る私たちは、家康は豊臣家を存続させるほどの甘ちゃんではないということがわかるが、当時、家康はこれほど篤実な人間はいない、と周囲に思わせていたし、そのあたりで、北政所や加藤・福島も騙されてしまったのかも知れない。


作家の杉本苑子氏はある番組で北政所(=おね)について語っていた。杉本氏はおねについて大変深い思い入れがあるようで、それ故に大坂城が燃え、豊家が滅んだときのおねの態度についてやや辛口の感想を持って入らしたように思う。秀吉と二人で築いた豊臣家ならば、自分たちの代で潰してもかまわないという思いがあったのかも知れないが、杉本氏は二人で築いたのならば、何故運命を共にしなかったのか、と。私も運命を共にせずとも、もっと豊家存続のために尽力しても良かったのではないかと思う。
いかにおねが頑張っても、所詮家康の前では無力だったかも知れないし、実際にはなんらかの力になろうとしたのかも知れない。北政所がいかに頑張っても、淀君やその取り巻きが、救いようもないほど愚かだったのかも知れない。
だが、後世の私たちの目からすると、世の乱れは最小限で治まったかも知れないが、豊家にはむしろマイナスの働きしかしなかったようなきもする。(このあたりは私も断言は決してできないし、異論・反論も数多いことと思う)
このあたり、前田家を救うために家康の人質になることを厭わなかった「まつ」と、私はどうしても比較してしまう。
淀君に政治的なことを期待するのは的外れだろうが、杉本氏ではないが、おねは賢婦人と謳われた人だ。家康という存在を見抜けなかったのは残念としか言いようがない。
筆者注: 北政所(おね)の関ヶ原の戦いにおける動向は、家康寄りの姿勢であり、その影響下にあった加藤・福島・浅野も家康の東軍に加わったとされるのが通説です。司馬遼太郎氏の小説も、このドラマも、それに従って描かれています。
しかしながら、最近では、石田三成は必ずしも北政所と不仲でもなく、むしろ北政所は三成の挙兵を支持していたという古い文献も発見されているそうです。このように事実は小説やドラマとは異なるようですが、その立場に立つと、このドラマの感想文は書けなくなってしまうので、ここでは通説に従って考察しました。何卒御了承ください。

3.さらば、友よ 〜大谷吉継のこと〜

私がドラマの中で最も印象付けられたのは三部構成の中の第二部、「さらば友よ」のラストでの大谷吉継だった。
大谷吉継はハンセン氏病を患い、既に目も見えなくなっている。三成に劣らないほどの事務能力を持っていた。現実を見極める能力も高く、病さえ得なければ、三成以上の働きをしたのではないかと思う。劇中、三成が吉継を評する場面がある。
「太閤殿下が、あの大谷に百万の兵の采配を取らせてみたいと申されていたことを忘れはせぬ」と。
武将としても超一流であったわけだ。
三成は吉継に兵を上げることを告げ、吉継にも協力を要請する。吉継は三成を必死に思い留まらせようとする。徳川の力はあまりにも大きすぎると。冷静に判断すれば、三成が家康に勝てるはずはない。
「三成、お主、目が見えなくなったのか。この天下にお主ほどなにもかも見とおせる目を持った男はいないと思っていた」
だが、三成は既に上杉と共謀していることを吉継に告げる。吉継は絶句する。
「自滅するぞ。さらばじゃ、三成」
席を立つ吉継。
「さらばじゃ、友よ・・・さらば」とつぶやく三成。


一旦は三成の要請を断り、上杉討伐のため家康の元に合流すべく向かう吉継の脳裏を、ある情景がよぎる。
かつて茶会の催しで、吉継が飲んだ茶碗を、他の武将は嫌がって口をつけなかった。吉継も致し方ないと思っていた。しかしながら、三成だけは平然と飲み干した・・・
この情景を思い浮かべた吉継は、叫ぶ
「引き返す、引き返すのだ!」
三成の元に戻った吉継は三成に言う。
「三成、わしもお主も目がもう見えぬ。目が見えぬ同士のよしみじゃ。この命くれてやる。受け取れ!」吉継は手を差し出す。
このシーン、理屈や感想ということよりも、私は目頭が熱くなるのを止めることができなかった。

4.石田三成が残したもの

石田三成は関ヶ原の戦いに敗れる。しかしながら、彼は太閤秀吉への義、主君に尽くすという正義をまっとうした。その点においては誇りは満たされたのではないか。
ドラマのラスト近くで、家康が本多正信に語る。
「豊臣家子飼の大名達、ああも無節操に裏切れるものか。喜ぶ反面、心が、冷えたわ・・・せめて三成のような家臣がいて、太閤殿も初めてうかばれたであろう・・・これからは我が徳川家、三成のような家臣に恵まれれば良いが。義、忠義の家臣にのう」
後世、徳川幕府は、朱子学を取りいれ、武家の倫理を厳しく見るようになる。
主演の加藤剛氏は、司馬・森繁両氏との座談の中で、「三成の生き方・考え方は家康にも強く印象付けられ、それが徳川幕府の考え方にも影響したのではないか」とおっしゃっていた。加藤氏も三成には相当共感し、思い入れがあったようだが、確かに光國の時代になって「三成は憎からざる者」と言われるようになる。
徳川家の敵だから褒めることはできないが、主君への忠義を貫き通したという点では、最高の人物だったのではないか。そんなことからこの微妙な表現が出てきたのだと思う。
また、石田三成の侍大将、島左近も、後世、武士の典型として江戸期を通じて尊敬を受けた。関ヶ原の敵方主従がこれほど持て囃されるとは、徳川家はともかく、三成を討った豊臣恩顧の大名家にはさぞかし皮肉なことではあっただろう。
三成が後の武士道、武士の倫理に影響を与えたならば、それは明治維新の人物、明治の偉人たちにも受け継がれたことになる。また、法の遵守・正義という考え方は、江藤新平などととも共通するものがあると思う。『武士道』を著した新渡戸稲造へもつながっていくのではないか。
石田三成は目に見えない形で、後世に多くのものを残したような気がする。
++ 終わりに ++
この文章の所々で触れたようにドラマ『関ヶ原』のDVDでは司馬遼太郎・森繁久禰、加藤剛の三氏の座談が2回に渡って治められている。司馬さんの考え方が声と映像をもって理解することができて、ファンには貴重な映像だと思う。又、森繁、加藤という、人間としても独特の知性と個性を持った名優が司馬さんと会話をするといのも、非常に得がたい企画なのではないかと思う。
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