司馬遼太郎と伝奇的世界
〜毎日新聞の記事より〜
平成14年12月27日UP
司馬さんと仏教…司馬さんが宗教をどのように位置付けていたかということは、作品を読み解く一つの鍵になるのではないだろうか?
ちょうど『空海の風景』を読み終えた頃、毎日新聞の重里記者から記事が送られてきた。
密教と真宗がせめぎ合う司馬遼太郎の伝奇的世界
司馬遼太郎の作品に見られる伝記的な性格をどう考えればいいか。ずっとひっかかっている。デビュー作『ペルシャの幻術師』や忍者を描いた『梟の城』など、初期に顕著だが、その後も京都を舞台に怪異のい力が人間をもてあそぶ『妖怪』など、戦国期や幕末・維新の激動を見据えた名作群とは随分と趣が違う。司馬にとって、伝奇性とは何なのか。
新刊の『司馬遼太郎対話選集』第1巻(文芸春秋)を読んでいて、なるほど、と司馬の道筋が見えたような気がした。示唆的だったのは物理学者、湯川秀樹との対談「日本人の原型を探る」だ。
美人論から始まった会話は、日本人の起源をんめぐって盛り上がる。二人が意気投合するのは二つの原型があるという考え方だ。一つは縄文的なもの。物事を根源的に考え、呪術的なものも受容する。もう一つは弥生的なもの。平明な世界認識をし、簡素な美をめざす。もちろん、縄文とか弥生とかいうのは厳密なものではなく、発想の遊びのようなものだ。
面白かったのは司馬が縄文的なものとして密教を挙げ、それと対立するものとして浄土真宗を出していることだ。そこで、司馬の伝奇的世界は多分に密教を意識しており、それが真宗的なものとせめぎ合うことで、物語が成立していたのを思い返した。代々門徒という司馬は、真宗になじみながらも日本人の全体像を追い求めて、霊や幻術が横行する世界を描いたのではないか。非弥生的なものへの関心は空海を考え、遊牧民に思いをはせることにもつながってはいないか。
巻末で関川夏央さんが解説する通り、司馬は対談を「達人問答」にせず、知的な楽しみに満ちた世界に読者を誘う。『対話選集』は全5巻。司馬文学へのガイドブックとしても重宝しそうだ。 【重里徹也】毎日新聞 平成14年12月8日 「文化という劇場」より
私個人の司馬さんのイメージといえば、『坂の上の雲』での正岡子規の写生の精神だった。すなわち、平明で客観的で現実をあるがままに認識する…というものだった。『坂の上の雲』の秋山兄弟や児玉源太郎、『竜馬がゆく』の坂本竜馬、『峠』の河井継之助、『播磨灘物語』の黒田官兵衛と、司馬さん好みの人物を考えるとき、必ずと言って良いほど現実認識に優れている、という特徴がある。
だが、司馬さんの文学を考えるとき、その出発点が「ペルシャの幻術師」だったことを、忘れてはならないだろう。司馬さんはやがて『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』を境に、幻術ものから幕末・戦国ものへと移行して行く。ある意味では直木賞受賞作の『梟の城』はその中間点に位置するのではないか。司馬さんが世に広く見とめられた作品が、二つの作品傾向の間に位置する作品だったということ、さらに小説としての最後の作品が『韃靼疾風録』だったことは、この作家を考える上で暗示的なことなのかも知れない。
司馬さんは、『空海の風景』や『妖怪』などの非・幕末戦国ものも書いている。『空海の風景』は完全に伝奇ものとは言えないが、やはりこの縄文・密教的なものへの意識が強く残っていたのかも知れない。
実は司馬遼太郎の作品考えるとき、「写生の精神」(=真宗的世界)の裏には空海の密教や、あるいは幻術という側面が流れているとも考えなければならないのかも知れない。重里記者の記事を見てそう思った。