
旅日記 No.30 石巻・白石編

| 平成13年 | 5月11日 安田恭介の故郷・石巻 | 5月12日 木造再建天守・白石城 |
| 目 次 | PART
1 1.石巻へ 2.アラスカ物語 3.日和山 4.旧・聖ハリストス教会 5.多福院 |
PART 2 6.白石へ 7.白石城再建天守 8.「鬼小十郎帰るに及ばず」 9.武家屋敷 10.館腰駅 |
| 交通 | 福岡→(JAS931)→仙台空港→(バス)→長町一丁目 →(地下鉄)→勾当台公園→あおば通り駅 →(JR仙石線)→石巻→あおば通り駅 |
仙台駅→(JR東北本線)→白石駅 →館腰駅→(バス)→仙台空港 →(JAS934)→福岡 |
旅日記「アラスカ物語」について
(タイトルは、新田次郎の小説より)
今回の旅では、新田次郎の小説『アラスカ物語』の主人公・フランク安田こと、安田恭輔の故郷・石巻を訪れました。安田恭介は、明治初年に石巻の名家に生まれましたが、十代半ばにして両親と死別、アメリカ本土からアラスカに渡り、金鉱を発見。鯨の乱獲で食糧不足に苦しめられていた海岸エスキモーを率いて内陸部に移住し、“ジャパニーズ・モーゼ”“アラスカのサンタクロース”と称された人物です。
小説では、単なる“日本人の成功物語“ではなく、人生に対し、真摯に立ち向かう主人公の姿が描かれ、高校生だった私は非常に感動しました。この本と出会ったことで、読書が好きになったこともあり、『アラスカ物語』は私の読書の原点とも言えます。
二日目は、木造で天守が再建された白石城を訪れます。
PART 1 5月11日(金) 安田恭輔の故郷・石巻
5月11日、朝5時に起床する。5月とはいえ早朝はまだ肌寒い。薄手のハーフコートを着こみ、高速バスで福岡空港へ。ターミナルで朝食を取り、8時半発のJAS931便で仙台へ。
空港からは仙台駅行きのバスに乗車する。空港は仙台市街の南方に位置し、バスは中心街に近づくと渋滞することが多い。そこで、市街地の南端の長町一丁目で降りて、地下鉄に乗り換え、仙台駅より少し北の勾当台公園駅で降りる。
ホテルで荷物を預かってもらい仙台駅まで歩く。途中の書店で石巻の地図を購入し、「あおば通り」駅からJR仙石線に乗車する。十年程前も仙台・石巻を訪れたときは、仙石線は仙台駅東口付近のホームから出ていたが、今は市の中心街は地下を通り、仙台駅より先のあおば通り駅まで路線が延びている。
12時発の快速電車に乗る。途中、多賀城、松島などを経由して、約1時間で石巻駅に到着する。
石巻は人口約12万人、宮城県では仙台に次ぐ第二の都市。北上川の河口に位置し、江戸時代には海運の要衝の地として栄えた。そして、新田次郎の『アラスカ物語』の主人公・安田恭輔が育った町だ。
新田次郎(1912〜1980)は長野県諏訪市の出身。直木賞を受賞した『強力伝』を初めとする数々の山岳小説で知られ、『武田信玄』という大長編も著した骨太の作家で、司馬遼太郎も大変尊敬していたようだ。
私は、他のどの作品に増してもこの『アラスカ物語』が好きだ。強い意思を持ち、偉業を成し得ながらも、謙虚に身を慎んで生きた主人公が描かれる。
『アラスカ物語』
フランク安田こと安田恭輔は、明治初年、宮城県石巻市に生まれた。安田家は代々医業を営む名家だった。祖父・友林は、恭輔の気の強い性格を愛し可愛がるが、恭輔七歳のときに亡くなり、両親もまた十五歳のときに亡くなる。
跡を次いだ兄の清安はまだ若く、家を支えることも難しい。安田家は離散し恭輔は三菱汽船に勤める。独立心の強い恭輔は石巻の実家に一人残り自活する。そんな恭輔に亡き祖父の親友・石原田鳴斎が目をかけ、孫娘の千代もまた恭輔に思いを寄せるが、石原田家もまた家勢が傾き、千代は財産家に嫁ぎ二人の中は引き裂かれる。
恭輔はアメリカに渡り、さらにアラスカの沿岸警備船・ベア−号に雇われ、乗船する。ベア−号は突然寒波に襲われ、氷の中に閉じ込められる。フランク(恭輔)は食料横流しの疑いをかけられ、有色人種ということもあり、船内で危険な立場に立たされ、あえて、沿岸の町・ポイントバローへ助けを求めに赴く役目を引き受ける。
奇跡的に救援を求めることに成功したフランクは、ポイントバローに住みつく。素朴で暖かいエスキモー達に惹かれたのだ。そしてある日、故郷の千代に良く似たエスキモーの女性・ネビロを見かける。彼女は鯨漁の親方の娘で、進歩的な考え方を持っていた。やがて、フランクはネビロと結ばれるが、この頃、ポイントバローの鯨漁は密漁船の乱獲のために壊滅的な打撃を受ける。生肉が不可欠なエスキモーにとって、鯨が取れないということは死を意味する。
フランクはこの頃アラスカで金鉱を捜し求める探検家・カーターと知り合い、パートナーになるよう誘われる。フランクはエスキモーの危機を乗りきる契機を求め、カーターと金鉱探しに出る。苦難の道程の果てに金鉱(シャンダラー鉱山)を掘り当て、その過程で知り合った日本人・ジョージ大島の助けもあり、エスキモーを極端に嫌うインディアンの居住地の中に、ビーバー村を築き上げる。フランクは海岸エスキモーを引き連れ、ビーバー村に移住、ジャパニーズ・モーゼ、アラスカのサンタクロースと呼ばれるようになる。
ビーバー村は、初めは金鉱で、次いで毛皮の集約地として栄える。この頃がフランクの人生の最盛期だろう。故郷に手紙を送り、兄清安からも帰国を誘う手紙が届くが、ネビロは反対する。「あなたは日本に帰ったら、ビーバー村には戻ってこないだろう。あなたがいなくなったら、村のエスキモーたちは生きていくことができない」と。エスキモーの集団社会の因習から抜け出し、個を尊んでいたはずのネビロが、あえて村のエスキモー全体のことを考えて訴えることに心を打たれたフランクは、帰郷を断念する。
やがて第二次大戦が始まり、フランクも、ジョージ大島も強制収容所に送還される。戦争が終り、フランクがビーバーに戻ったときには、村の若者達は去り、一つの時代は終りを迎えていた。
ある冬の日、フランクはネビロに話しかける。「石巻の日和山にダイヤモンドダストが降っている。多福院の屋根にも……」
故郷への思いの中、1958年(昭和33年)、フランク安田こと安田恭輔は90歳の生涯を閉じる。小説には取材紀行が付する。新田次郎はアラスカ、ビーバー村を訪れ、さらにフランク安田の次女、ハナさんに会う。そして日本に戻り、石巻の恭輔の生家を訪ねる。恭輔の兄・清安の孫にあたる方は、以前マスコミから恭輔の取材を受けたときに失礼な言動を受けたこともあり、取材を断ろうとするが、アラスカまで取材に行った新田次郎の熱意に打たれて快く取材を受けられる。
昔(約25年前)、『少年チャンピオン』という雑誌にこの『アラスカ物語』が劇画化されていた。偶然書店で原作を見つけて買い求めたが、この頃私はまだ小学校高学年で、わからない漢字・表現ばかりでストーリーを読み取るのが精一杯だった。高校一年になって、本棚にあったこの本を読みなおし、今度は内容を理解することができ、ストーリーの面白さと、主人公の人物像に夢中になった。
私はもともと子供の頃から本を読むのは好きだったが、いわゆる児童文学ではない、大人の小説を読んだのは『アラスカ物語』がはじめてだった。だから、この小説は私の中で格別な位置を占めている。また、小説との出会いが、堅実で丹念な取材の上に創作を行う新田次郎の作品であり、その中でも安田恭輔が主人公の『アラスカ物語』だったことは、私の読書人生には、とても幸いなことだったと思う。
安田恭輔については、極めて個人的な理由でも興味がある。私の母方の祖母の父(曾祖父)もまた、明治にアメリカに渡った人だった。モンタナからシアトルに移り、初代日本人会の会長を務めた。私の祖先はそれほど長生きせず、祖母の兄も交通事故で亡くなり、モンタナで生まれた祖母は日本に戻ったが、恭輔はその生涯の中で何回かシアトルにも赴いたらしい。もしかしたら、私の曾祖父も恭輔に会う機会があったかも、知れないと思う。
十年前、東京にいた頃にも石巻を訪れた。だが、その急に仙台に用事ができて、空き時間を利用して訪れたので、本を読みなおす暇もなく、新田次郎が訪れたという日和山を訪ねたぐらいだった。いつか再びゆっくりと安田恭輔ゆかりの地を歩いてみたいと思っていた。
さて、駅前は十年前よりも随分ときれいになっている。石巻駅は、仙台からの「仙石線」と「石巻線」が合流する駅だが、昔は「仙石線」の駅と「石巻線」の駅が少し離れて、別れていたように記憶しているが、今は一つの駅になっている。ロータリーも整備されて広くなり、その前にはビブレができている。かなり印象が変わっているが、駅前の大通りを進むとようやく昔の景色と重なってくる。
ちょうど昼時であり、お腹もすいてきた。食事を済ませると雨が降っている。せっかく念願の石巻に来たのに、と残念に思う。駅のコンビニで傘を購入しようかと思ったが、様子を見ていると、次第に小降りになってきて、やがて降り止む。通り雨だったようだ。
少し時間を無駄にしてしまったが、気を取りなおして、まずは海門寺公園へ。駅前通りを進むと小高い丘があり、羽黒山公園となっている。ここは上らずに、丘の東側を迂回して進み、石巻市役所の方へ坂道を上ると、その一画に「海門寺跡」がある。跡地はテニスコートや武道館らしき建物がある。ちょうど日和山への中腹の斜面に位置している。
海門寺跡(日和山中腹) 海門寺は明治6年に殆どの建物が焼失し現存しないが、かつては三日三晩続く盆踊りで広く知られていた。
小説『アラスカ物語』では、物語の初頭に恭輔の石巻時代が記され、そこでも盆踊りの場面が描かれる。恭輔は両親と死別した後、孤独の身となり一人で自活していた。その恭輔を祖父の親友・石原田鳴斎は何かと目をかけるようなり、この盆踊りの日に鳴斎は恭輔に孫の千代を連れて行くように促す。恭輔は千代を幼い頃から知っていたが、この頃になって異性として意識するようになる。
海門寺跡よりさらに坂道を上る。このあたりは閑静な住宅街になっている。坂のつきあたりを東へ曲がり進むと日和山公園に辿りつく。日和山は、中世には大規模な城郭があったというが、伊達家の支配とともに廃城になった。公園からは山の南側、北上川の河口や海岸線が一望できる。絵を描いている人も多い。
日和山の城址に立つと、海からの風が涼しかった。港から北上川にかけて、たくさんの船が帆をおろしていた。石巻港は荻浜とは別に、漁港として着実に発展していた。
恭輔と千代が並んで海に向かって立つと、まつは二人の傍を離れて、鹿島御児神社へ参拝に行った。
<恭輔さんの浴衣、誰が仕立てたの>
千代がふと思い出したように言った。
<荻浜の仕立屋さんに頼んで縫って貰ったのです。どこかおかしいですか>
<いいえ、私が縫ってあげればよかったと思っているの>
<そうして貰いたかったな>
<もう私は大人よ>
<ぼくだって大人さ、ほかの誰よりも、千代さんが縫った着物を着てみたい>
<私はね恭輔さん、私は……>
千代は突然、泣き出した。感動が胸に迫ってそれが涙になったようだった。海門寺から聞えて来る太鼓の音が彼の胸を打った。千代は泣くという異常な表現で、彼女の気持ちを恭輔にうったえたのだが、恭輔は狼狽するだけで、彼女の気持ちを受け入れる方法を知らなかった。
<ぼくは、千代さんを、おれは千代さんを……>
愛しているという言葉が言えなかった。好きだとも言えなかった。結婚してくれとも言えなかった。恋していたのだなんて言える筈がなかった。彼はおれとぼくと千代さんの三語を交互につぶやきながら、泣いている千代の肩に手を掛けてもやれずに立ち尽くしていた。十八歳の恭輔にはそれ以上のことはできなかった。新田次郎『アラスカ物語』より
日和山公園 日和大橋(旧北上川河口) 恭輔は千代と相思相愛ではあったが、千代の生家、石原田家は経済的に傾き、千代は仙台の素封家へ嫁ぐことになり、二人の仲は引き裂かれる。
恭輔は正月の休みに生家へ帰ったついでに石原田家を訪れた。
恭輔の姿を見た家人は、ものも言わず彼の来訪を主人の鉄之助に告げた。
<なにか用ですか>
と鉄之助は玄関に仁王立ちになって恭輔に言った。まるで仇を見るような眼だった。恭輔は鳴斎に会いたいと言ったが、鉄之助は鳴斎は暮から風を引いて寝こんでいて会わせるわけにはゆかないと答えた。
<それでは千代さんにお目にかかりたいのですが>
その言葉を鉄之助は恭輔の挑戦と受取ったのか、一段と声を張り上げて怒鳴った。
<帰れ、汽船会社の給仕ふぜいが、度がすぎるにもほどがあるぞ>
恭輔はその言葉を怒りの涙を溜めて聞いた。数年前まで、石巻第一の名家安田家の三男坊であった自分が、汽船会社の給仕ふぜいと罵られたのである。もし、両親が生きていたら、せめて祖父友琳が生きていたら、恭輔は千代の養子にふさわしい人物として迎えられたに違いない。鳴斎が、去年の夏、千代を盆踊りにつれて行ってくれと言った時点では、鳴斎は恭輔を石原田家へ迎えようと思っていたに違いない。だが、その後風向きが変ったのだ。石原田家は鉄之助の代になって傾き出した。鉄之助は家勢の挽回を計らんがために、千代に政略的結婚を強いたのである。噂のとおりであったことが、くやしかった。
もう駄目だ、すべては終ったのだと思った。恭輔は一言も言わずに、玄関を出た。庭石伝いに門までは遠い道だった。
<恭輔さん>
という女の声と共にはだしで駆け寄ってくる千代を見たとき恭輔は、やはり、千代は嫌な結婚を強いられているのだ、彼女を助けてやらねばならないと思った。
千代はもう少しで恭輔の腕の中に飛び込もうとする寸前、つまずいてころんだ。彼女の延ばした手が、彼の靴にようやく触れるか触れないところで後から追いかけて来た家人の手に押さえられた。恭輔が手を出す暇はなかった。泣き叫ぶ彼女は連れ去られ、恭輔ひとりがそこに残された。
恭輔はその足で日和山に登った。寒い北風が吹いていた。海はいっせいに波立って、白く濁って見えた。彼はそこに長い時間立ったまま海を見詰めていた。新田次郎『アラスカ物語』より
公園の中を東に進むと、先程とは逆に山の北東方面がよく見える場所がある。旧北上川とその両側に広がる石巻市街が見える。安田恭輔の生家は、川を渡ったあたりのようだ。
かつて、新田次郎も石巻を訪れて日和山に登り、『アラスカ物語』の後記で、同行した市役所の人が安田家の場所を示す場面があるが、おそらくこの場所から指し示したのだろう。
『アラスカ物語』は、本文はもちろんだが、巻末の、著者によるアラスカと石巻の取材紀行文もまた内容が豊かで、本文に厚味を持たせている。
石巻市は初めてだった。その私のために橋本さんは、まず日和山城址に案内した。北上川の河口に、川を挟んでその両側に発達した町のたたずまいが一望のもとに見渡された。
「あのあたりが安田家」
と教えられたとき目標になったのは、採石のため山肌をけずり取られた跡だった。そこらあたりは恭輔の子供のころは安田家の所有地だった。山と北上川との中間あたりに安田家があり、安田家の菩提寺の多福院はその山の続きに見えていた。新田次郎『アラスカ物語』より
北上川、中瀬と両岸に広がる市街 石巻市湊町付近(北上川東岸)
公園にはいくつかの文学碑がある。山の南斜面を下りて行くと、見晴らしの良い場所の新田次郎の文学碑があり、石巻を案内した市役所の方に送った短歌が刻まれている。十年前にも訪れた記憶があるが、再び来ることができて、良かったと思う。
新田次郎(本名 藤原寛人)大正元年長野県諏訪市に生まれる。小説家。昭和三十一年「強力伝」で直木賞受賞。NHK大河ドラマ「武田信玄」の原作者で吉川英治文学賞受賞。代表作「アラスカ物語」の取材のため昭和四十八年七月二十五日石巻を訪れ当時石巻市立図書館長だった市史編集委員の橋本晶氏が案内を務めたが、前掲の歌(注・右写真歌碑と同じ)は帰京後橋本氏への礼状にしたためた作である。
北上川の盡きるところのかすみには
なおとまどいの青き波かな新田次郎が日和山を訪れたときの記録 新田次郎歌碑
4.旧・聖ハリストス教会
日和山公園を南(海側)へ下りて、東へ向かうと北上川に出て、町の方へ進む。漁業関係の会社、そこに資材などを提供する会社が多く見られ、その中に混じって普通の家屋も見られる。
川岸には多くの漁船が係留されている。向こう岸との間には小さな中洲の島があり、造船所などが見られる。
旧・北上川 橋を渡り、この中洲へ入る。右手に曲がると建設中の大きな建物が見える。「石の森漫画館」と出ている。先年亡くなった石の森章太郎の博物館になるのだろう。そういえば、街角には“サイボーグ009”の小さな像も見かけた。手元にある石巻市の観光案内図のキャラクターも石の森の手によるもののようだ。おそらく、これからは石の森章太郎が石巻市中心街の観光の目玉になるように思う。
さて、その向かいに小さな公園があり、洋館風の屋根が見える。ここが、旧・聖ハリストス教会。正面に回ってみる。二階建てで、屋根は瓦葺。中には入れないが、中央に入口がありホールになっている。その両脇に小さな部屋があり、ホールの奥にはやや大きめの部屋が見える。いずれも畳の部屋で、洋館の外観を意識しながらも、工法は和風なのではないかと思う。教会、というと多くの装飾が施されるのが常だが、この建物はいたって素朴な感じがする。
聖ハリストス教会(正面から) 聖ハリストス教会(後から) 聖ハリストス教会を出て橋へと戻る。中洲の道沿いには映画館もあるし、その向かいには時計屋さんもある。教会の横の敷地はアパートになっていて、その他一般の家屋もある。造船所が主だが、様々な表情を見せる中洲の島に思えた。
司馬遼太郎の『街道をゆく 嵯峨散歩、仙台・石巻』を読むと、この中洲は人口のものらしい。島の南側が最初に建設され、教会や橋の周辺は後から継ぎ足された土地らしい。
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| 石巻市街図 |
5.多福院
橋を渡り、北上川の対岸に入る。山が迫り、北上川に沿った細長い土地に市街地が広がる。橋の北側には落ちついた住宅街が広がり、南側には漁業関係の会社や工場なども見られる。
このあたりで安田恭輔が生まれ、育った。『アラスカ物語』の取材紀行では、新田次郎が恭輔の生家を訪ねた場面がある。本と地図を片手に歩いてみたが、それらしい家は見つけることもできなかった。もっともこの取材紀行は昭和49年(1974)に書かれており四半世紀以上も経っている。あたりも随分と変わっているに違いない。だが、恭輔が育った土地を歩くことができて良かった、と思う。
フランク(恭輔)は、晩年、しばしばユーコン河の岸辺に赴いたという。故郷の北上川を思い浮かべていたのだろう。
彼の頭の中でユーコン河と北上川とが入れ替った。
常に濁っていて、その底を見せたことのないユーコン河は、常に澄んでいて、その底の小石のひとつひとつが光って見える北上川に思われた。
ユーコン河の両岸の森は北上川の両岸に立つ山や丘に変った。寺や神社の木の一本一本までが子供のころのままの姿で浮び上って来た。静物ばかりではなく、兄弟姉妹、そして千代の愛らしい姿が昔のままで思い出された。
「おれは日本に帰らないでよかった」
と彼はひとりごとを言った。日本に帰らなかったからこそ、昔の姿をそのままに残して置くことができたのだと思った。新田次郎『アラスカ物語』より
川と山の間を走る国道398号線を南へ進む。湊小学校を過ぎて左に曲がると、正面に安田家の菩提寺・多福院が見える。萱葺きの屋根の先に本堂があり、その左手には墓地が見える。安田家の墓はこの中央あたりにあるらしい。
本堂の奥は、もう山が迫っている。この場所には、中世には密教系の寺があり、廃寺になった後に多福院が建てられた。境内には中世以来の石塔があり、文化財として貴重な物らしい。
多福院山門 多福院本堂 石塔 小説では、千代の生家・石原田家はこの多福院の続きにあったとある。恭輔は、時折多福院の裏山から石原田家の庭に姿をあらすこともあったという。
再び北上川の川辺を歩く。『アラスカ物語』の最後の場面を引用する。
「ネビロ、出てごらん、ダイヤモンドダストが日和山に降っている。きれいだなあ」
フランクはネビロを呼んだ。
空はよく張れていた。ダイヤモンドダストなど見えなかった。それに日和山は、もう何度かきかされてことのあるフランクの故郷の地名だったので、ネビロは不審に思って、フランクの顔を覗きこんだ。
「見ろ、多福院の屋根にもダイヤモンドダストが降っている」
多福院は彼の生家の菩提寺だった。彼の眼には多福院の屋根いっぱいに降りそそぐ、ダイヤモンドの粉が、たとえようもなく美しく輝いて見えた。
「あなた、どうしたの、あなた」
ネビロがフランクの手を取ると、
「ああネビロ、石巻の……」
石巻の兄なのか、弟なのか、姉なのか、妹なのか、祖父なのか、それとも千代なのか、或いは母の名を呼ぼうとしたか父に語りかけようとしたのか、その大事な人の名はついに言わなかった。彼はネビロに手を取られたまま大きくよろめき、両膝を揃えて雪の上につき、そしてゆっくりと前かがみに倒れた。新田次郎『アラスカ物語』より
安田恭輔が亡くなったのは、昭和33年。私が生まれるつい五年前まで、このような歴史を背負った人が生きていたのだ、と思う。
湊町のあたりをぶらぶら歩き、橋を渡って石巻駅へ。途中の商店街はきれいに整備されつつあるようだった。駅に戻ると、快速までは30分ほど時間がある。日も落ちて急に肌寒くなった。ハーフコートを着こんで発車を待つ。
やがて電車に乗り込み、約1時間で仙台へ戻る。時間があれば、仙台市内にある温泉も行ってみたかったが、残念ながらその時間もなく、ホテルへ戻る。その後、繁華街の国分町の方へ出て食事をする。金曜日の夜ということもあって、町は多くの人で賑わっていた。