
旅日記 No.22 伊予大洲・松山編
街
道 を ゆ く
| 平成12年 | 4月4日 おはなはん −伊予大洲編− |
4月5日 春や昔十五万石の城下かな −伊予松山編− |
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| 目次 | PART
1 1.愛媛へ 2.肱川の清流 3.大洲城 |
PART
2 4.おおず赤煉瓦館 5.おはなはん通り 6.臥龍山荘 7.大洲浪漫 8.大和屋本店 |
PART
3 9.子規記念博物館 10.道後温泉本館 11.子規堂 12.大街道 |
PART
4 13.松山城 14.二の丸史跡庭園 15.NHK松山放送局 |
| 交通 | 福岡→(JAS871)→松山→(JR特急宇和海)→伊予大洲→松山 | 松山→(JAS874)→福岡 | ||
旅日記「街道をゆく」について
(タイトルは、いうまでもなく司馬遼太郎の名著より)
今年三月のこと、高松旅行から帰った翌日、強い疲労感を覚え、もうそろそろ旅はやめようかと思いましたが、季節は春、私の旅の原点となった松山を訪ね、城郭建築としての松山城をよく見て、そして大好きな南伊予の中で、まだ訪ねていなかった大洲も歩くことにしました。
今回のタイトルは司馬遼太郎の名著から取りました。『街道をゆく 南伊予・西土佐の道』の主要な舞台の一つ、大洲では、司馬遼太郎の足跡をたどります。
PART 1 4月4日 おはなはん −伊予大洲編−
1.愛媛へ
四月四日、6時半に起床する。今回は三月下旬にひいた風邪が意外に長引き、完治していないが、体調はかなり良くなっている。
福岡空港・第1ターミナルのJASカウンターで無料航空券を発見してもらい、搭乗口へ。JAS松山便は3月までは9時20~30分発だったが、四月からは少し送れて10時発。他の便が同じ時間に出発予定なので、先に登場手続を行う予定らしかったが、遅れて松山便と時間が重なる。そのため離陸が20分程送れてしまった。
松山空港へは10時50分頃到着。いつもは海から滑走路に着地するのだが、今回はぐるっと上空を廻り、反対側(陸側)から空港に入る。今日は伊予大洲行きを予定しており、急いでJR松山駅行きのバス乗場に行くが、広い「新道」を通る直通リムジンバスは既に出てしまった。「いーカード」(伊予鉄道のバス、市電、電車に使用できるプリペイドカード)を購入し、10分程待って、やや時間がかかる「旧道」経由のバスに乗る。結局JR駅への到着は11時30分になり、25分発の宇和島行き特急を逃してしまった。
とりあえず駅ビルで少し早めの昼食を取る。特急に乗り遅れたこともあり、大洲行きは明日に変更しようかとも思っていたが、テレビの天気予報を見ると今日は曇り・明日は雨らしい。今回は伊予大洲行きをメインに考えていたので、少し遅くなっても大洲へ行くことにする。
2.肱川の清流
松山駅からJR特急「宇和海」に乗車して30分余り、意外に早く伊予大洲駅に到着する。駅を出ると右手にJR四国の旅行代理店があり、その中の一画が市の観光案内所になっている。ここで地図をもらう。受付の方が「大洲城跡にいかれたらいかがですか。天守閣はありませんが、櫓が残っていて桜が満開ですよ」と教えてくださる。
大洲は肱川の北と南に町が広がる。南側には城跡があり、旧城下のようだ。一方北側にはJRの駅があり、比較的新しい町のように思われる。駅前から道路を南に10分程下ると、やがて肱川の清流と、その向こうに大洲の旧城下町が見える。大洲は、肱川の河原に開けたごく小さな町。右手には緑に包まれた城山が見え、肱川が美しい曲線を描いて流れる。この肱川が町の景色の主役になっているように思う。
肱川ごしに見た大洲城と市民会館
川を渡り、まず右手の商店街を進む。道は狭く車は一方通行になっている。昔ながらの書店などが軒を連ね、昔の町屋の名残が感じられる。商店街を抜けるとやや広い道に出る。
右手には市民会館がある。司馬遼太郎は、「街道をゆく 南伊予・西土佐の道」で肱川ごしに見える大洲の景観を褒め称えたが、この市民会館は「景観を壊すコンクリートの不調法な建物」として酷評している。だが司馬遼太郎が訪れたときからすでに二十年以上も時が経ち、この建物も古びて「一昔前の公共の建物」という懐かしい感じがし、それなりに町の風景に溶け込んでいるような気もする。
大洲の町は、肘川の白っぽい河原に発達した。
まわりが山で、河原にも島のように小山を残し、かつては赤松の濃いみどりが川の瀬々に滴るようであったらしい。川はこのあたりになって大きな淵をつくり、その美しさは碧潭としか言いようがなく、その松と碧潭の景観のなかに童話のお城のような大洲城の櫓の白壁が映えていた。
昭和三十年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息をわすれる思いがした。(中略)
町へは北から入った。
肱川の大橋をわたるときに、須田画伯に、
「右手を」
川下をご覧あれ、といってみたのだが、言いつつ元気が失せた。碧い淵と磧(かわら)に面していた白壁の可愛い櫓の横に、およそまわりの自然とは不調和なコンクリートの会館のようなものができていたのである。
司馬遼太郎「街道をゆく 南予・西土佐の道」より
ただ、その前に見える芋綿櫓と対比すると、周囲の景観からは浮いているようにも思う。私は市民会館を“はじめからそこにある風景”として見ているので、違和感は感じないのかもしてない。視界にうつる構図から市民会館を外し、川と城山の緑と苧綿櫓の三点で景色が構成されれば、司馬遼太郎が書いたように絵に描いたような美しい光景になり、やはり不調和な建物なのかも知れない。
3.大洲城
市民会館の左手の坂道は左に曲がりながら上る。右手に上ると二の丸跡に着く。桜が満開で、出店もあるが平日ということもあり、人はあまりいない。城内に取りつけられたスピーカーからは演歌のカラオケのような曲が流れる。大音量で流されているため音も割れており、あたりの雰囲気に合っていないように思う。
二の丸から右に坂道を上る。左手の敷地には井戸跡があり、そのさらに上の段に高欄櫓が見える。右手の敷地には立て看板があり、大洲城天守閣が木造で復元される予定であることが記されている。
大洲城高欄櫓
(二の丸より見る)大洲城高欄櫓(本丸側より見る)
坂を上ると本丸になっている。正面に台所櫓という安定感のある二重の櫓があり、左手には先ほどの高欄櫓がある。台所櫓の左手は整地されている。復元天守はここに建てられ、台所櫓、高欄櫓と連結されるらしい。
大洲城・台所櫓(西側より) 大洲城・台所櫓(南側より)
本丸から周囲の地形を眺める。北と東は肱川が流れており、昔は南と西には内堀が引き込まれていた。市民会館は堀の上に建てられたようだ。
大洲城は、中世から城が築かれたらしいが、本格的に城郭として整備したのは藤堂高虎と脇坂安治だった。特に縄張りを行ったのは藤堂高虎らしく、その構造は宇和島城と共通するところがある。宇和島は宇和海に面し、大洲は肱川沿いの川港として発達した町で、海と川の違いはあるが、港に接し小高い丘の上に城を築くところは良く似ている。大洲城は「川城+平山城」と言えるだろう。高虎の時代には天守はなく、後に入封した加藤貞泰が築き、そのまま加藤家が幕末まで治めたそうだ。
大洲城天守は取り壊される前の写真が残っており、内部の構造も資料により伝えられている。そのため、外観・構造ともに原型に近い形で復元でき、日本初の木造復元天守となる。
現在、外旧来の外観通りに再建された「復元天守(例えば熊本城等)」はすべて鉄筋コンクリート造りである。木造で再建された天守も三つあるが、宮城県の白石城、福島県の白河城は、残された絵画や図面から推定されたもので、静岡県の掛川城は、山内一豊が築いたということから、“兄弟城”の高知城を模して再建された。いずれも原型が不明な状態で、想像を交えて再建されている。
大洲城図 内堀菖蒲園
城の東側に下る細い道がある。ここから肱川沿いに本丸北方を廻って二の丸にへ戻る。ここから西へ下ると、内堀のあとが公園に整備されて菖蒲園となっている。城外へ出て南へ進む。このあたりは「内堀」という地名のようで、昔は堀があったことがうかがわれる。あたりには武家屋敷を偲ばせるようなお屋敷も多く、高級武士の住居があったのではないだろうか。
さらに南の方へ進むと、城山から少し離れた所に独立した「南櫓」があり、南と東は一段低くなった土地で、グラウンドになっている。昔はこのあたりが三の丸で、グラウンドは掘りを埋めたてて造成された土地のようだ。
大洲城南隅櫓