旅日記・目次へ 旅日記 てんやわんや・坂の上の雲    

 

PART 2

 9月11日 津島(岩松)

4.宇和島

 9月11日、朝7時頃目が覚める。7時45分頃チェックアウト。大街道から市電に乗りJR駅に向かうが、7時56分発の宇和島行き特急を逃してしまう。温泉大浴場で朝風呂に入ったのが間違いだったか……。駅のレストランで朝食を取り、9時発の特急に乗車する。
 ホテルでクーラーをかけたまま寝ていたせいか、喉の調子が思わしくない。ペットボトルのお茶を買って喉を潤す。列車は内子、大洲、八幡浜と進む。この先は次第に上り、宇和盆地に入る。卯之町を経て、今度は下り坂に。吉田町のあたりでは海岸線の間近を走り、やがて宇和島に入る。所要時間は約70分。喉の調子はだいぶ良くなっている。
 宇和島駅前の宇和島自動車のビルの前に行ってみる。以前はここが宿毛方面へのバスの発着場だったはずだが、待合室などがなくなっている。移動しているようだ。とりあえず駅の近くのカメラ屋さんでフィルムを購入し、ついでに岩松へのバス乗場を聞いてみる。すると、店の方は道路の方まで出て親切に教えてくださる。近年の宇和島駅の改築に伴い、駅前も整備され、ロータリーの端にバス乗場が整備されていた。
 時刻表を見ると、岩松行きのバスは、かなり頻繁に出ているようだ。駅のコンビニで津島町の地図を入手しようかとも思ったが、残念ながら売っていない。10時30分発の岩松行きバスに乗車する。 

5.「てんやわんや」の里

 バスに乗車し、しばらくすると、運転手さんが「お客さん、整理券の番号は何番ですか」と聞かれる。「14番ですよ」と答えると、「本当は15番です。よかったらもう一度とってはいや〜」と言われる。牛鬼をおもわせるいかつい運転手さんだが、宇和島のことばのせいか、とても穏やかな感じがする。
 バスはお城の北側のバスターミナルを経由して市街を走る。宇和島もとても好きな街なだけに、素通りするのは残念だ。やがて宇和島自動車の営業所らしき建物の前で、運転手さんが交代する。やがてバスは、国道56号に入り、郊外へと進んで行く。
 やがて坂道を上りだし、トンネルをくぐると、そこは津島町、『てんやわんや』の故郷だ。

 やがて道が曲折する時に、私の眼は、破れガラスの車窓を透して、眼下に開けた眺望をスナップした。
 それは、山々の屏風で、大切そうに囲われた、陽に輝く盆地であった。一筋の河が野の中を紆り、河下に二本の橋があり、その片側に、銀の鱗を列べたように、人家の屋根が連なっていた。いかにも、それは別天地であった。あの険しい、長い峠を防壁にして、安全と幸福を求める人々が、その昔、ここに居を卜した――そういう感じが、溢れていた。

獅子文六『てんやわんや』より

 この文章は津島町の紹介では、頻繁に目にする。かつて、獅子文六が津島町(岩松)を訪れたとき、このように感じたのだろう。この文を読むと、獅子文六が一方ならぬ好意をこの町に寄せていたことが読み取れるような気がする。
 小説『てんやわんや』では、宇和島から相生町(=岩松)まで1時間50分から2時間と記されている。今では松尾トンネルが開通し、宇和島からはわずか30分になった。もちろん、『てんやわんや』の時代の木炭バスと現在のバスではスピードもまったく異なるだろうが、宇和島との距離はかつてとは比較にならないくらいに縮まった。
 バスはやがて岩松の中心街に近づく。役場を過ぎると、次は終点の岩松。バスターミナルがもうけられている。岩松川の清流が見える。

獅子文六と小説『てんやわんや』

 獅子文六(1893〜1969)は横浜生まれ、本名岩田豊雄。フランスで演劇を研究。戯曲の翻訳や評論等に力を注ぎ、岸田国士らと文学座を結成する。その一方で獅子文六のペンネームでユーモア小説を発表。戦前から活躍し、戦後昭和20〜30年代には文壇をリードする。昭和20〜22年にかけて、夫人の故郷である岩松に滞在。この地を舞台にした『てんやわんや』、『大番』、『娘と私』などを発表する。
 『大番』は昭和31〜33年に週刊朝日に連載され、四回も映画化され、”大番知らぬは恥”という言葉も生まれた。相場師の主人公”ギューちゃん”の出身は、岩松近辺の農村出身と設定おされている。
 『娘と私』は獅子文六本人と娘との交流を描いた私小説的なストーリー。NHKの朝ドラの記念すべき第一作の原作でもある。

 『てんやわんや』は昭和23年11月から約半年、毎日新聞に連載された。物語は次の文で始まる。

 読者諸君!
 私は大丸順吉と言って、無産無職、今年二十九になる、つまらぬ男であるが、これから長い物語を始めるので、名前ぐらいは覚えていて下さい。
 謙遜でなく、私は平凡な人問で、才能、勇気、学問――男性の装飾となるべきものを、相当、欠いている。従って、女に騒がれたということもない。麻雀も、野球も得意でない。われながら、魅力のない人問だと思うのだが、その割りに人から嫌われないのは、私が高慢を知らぬからであろう。私は運命にも、人問にも、よく服従する。それが、私の性格であり、また処世の道でもあった。

  主人公・犬丸は東京で鬼塚代議士の出版社で働いていたが、戦時中は情報局に勤めていた。そのため戦犯に挙げられるのではないかと恐れ、故郷に帰ろうとする。だが鬼塚は犬丸を利用しやすい人間だと思ったのだろう。”秘密文書”なるものを持たせて、自らの郷里の相生町(モデルは岩松)に送り込む。
 戦後の混乱の中、たどりついた相生町は、南伊予の桃源郷のような土地だった。犬丸は”相生長者”と称される玉松家の食客になる。戦中・戦後の厳しい世相に生きていた犬丸は、相生町の豊かさと大らかさに驚くばかりだった。やがて町会議員の越智善助、僧侶の田鍋拙雲らに見込まれ、彼らの”求心運動”=四国独立運動の同志となり、彼らと檜扇(ひおぎ)の里に出かけ”あやめ”という娘に恋をするようになる。その間相生町に鬼塚が訪れたり、その秘書の花輪兵子に求婚されたり、てんわやんわの騒動の末に大地震が起こり、犬丸は東京へ戻る決心をする。

 小説では相生町という地方の田舎町を舞台にして戦後の世相が描かれるが、その鋭い世相の観察眼に加えて、相生町(=岩松)の風景が美しく描写され、大らかで、真面目で、どこかおもしろい人々が描かれる。
 『てんやわんや』は佐野周二、淡島千景主演で映画化された。松竹よりビデオも出ていて、現在でも見ることができる。ストーリーは少し変更されているが、当時の岩松の町並・風景を見ることができる。
 また、この小説からネーミングされた”獅子てんや・瀬戸わんや”という漫才コンビも生まれ、一世を風靡した。

 

6.岩松川 

 岩松のバスターミナルに降りる。津島町はガイドブックにも細かい地図は載っていない。バスターミナルの裏手に行くとスーパーがある。地図が置いてないか見てみるが、置いていない。町役場まで行って地図がないか、聞いてみようかとも思ったが、目の前には岩松川の美しい景色が見える。まずは、岩松の町並みを歩いてみる。橋のたもとには地元のライオンズクラブが建立した獅子文六の記念碑がある。

 獅子文六先生は昭和を代表する作家の一人である。殊にペーソスあふれ風刺の利いたユーモア小説では第一人者として多くの読者の支持を得ていた。たまたまご夫人の縁で戦後の約二年間、当地東小西家に寄寓され、その間の見聞を題材としたいくつかの作品を発表され荒んだ当時の人々に爆発的好評を博した。「てんやわんや」「大番」「娘と私」他、短編、随筆など。なた津島町岩松の名は小説の舞台として一躍全国的に知られることになった。
 この文学碑は、こうした先生のご貢献に報いる為、先生ご来町の当時の感懐として寄せられた句の中から選び、津島ライオンズクラブ創立五十周年記念事業の一つとして建立するものである。
名誉町民山本稔氏(東京都)よりもご協力頂いた。

平成九年二月

獅子文六記念碑


岩松川(川下方面) 岩松川(川上方面)

 橋を渡ると岩松の旧市街が広がる。”岩松商店街”という表示が見える。つきあたりを右手に曲がる。狭い道路の両側に店や家が並ぶ。三好旅館、醤油屋など、時折古い建物が見えるが、全体的には昭和30〜40年代を彷彿とさせる建物が基調になっているように感じる。

岩松の町並

『てんやわんや』が発表された当時(=昭和20年代)の岩松を、獅子文六はこのように記している。

 舗装も、歩道もない往来を、私は歩きだした。家々の軒は低く、上方風に紅殻を塗った店や、中国地方に見るようなレンジ窓の家が多かった。小さな銀行支店や、歯科医院や、二階建ての駐在所などは、古びた洋館だったが、やがて、右側に、同じ低い軒下に、塗料の剥げた格子窓が連々と続く家があった。そして、田舎の小酒造家程度の、貧しい入口があった。真っ黒い標札は、辛うじて王松と読めるが、果して相生長者の家なのであろうか。内部半分は、薄暗い土間で、寺の納所のような感じだが、上り框の奥に、古風な帳場格子に囲
われた、簿記台があり、そこに、ジャンパーを着た男が、私の入ったのも知らずに、書きものをしていた。

獅子文六『てんやわんや』より

 商店街を抜けると、岩松川沿いの道に出る。この道沿いにも商店が続き、そのまま川に沿って歩くと、やがて町並みが途切れる。
 『てんやわんや』では玉松家に落ちついた主人公・犬丸順吉が相生川(=岩松川)沿いに海に出る場面が描かれる。

 もつとワケのわからぬのは、海の所在である。地図から見ても、刺身の魚の鮮度からいっても、海は間近でなければならない。天候の激変も、海峡の気流の支配と思われるのである。然るに、擂鉢の底のような地勢で、どちらを向いても、山ばかりである。最も海に遠い国の雰囲気である。
 今日の散歩の目的は、海を発見することにあった。裏門の前を、若松の影を浸して、清冽な相生川が流れてるが、その流れに沿って歩いていけば、いつか、洋々たる大海が眼前に展がらねばならない。 私は、河岸を歩き出した。小嵐山ともいうべき風景を右手に、相生橋の下を潜り、暫く行くと、左側は、白壁の倉庫が続き、河原の洲に枯芦など生え、水郷潮来の風趣がある。嵐山や潮来とくると、いよいよ海に遠いことになって、これでは半日も歩かねばと、思っていると、道はいつかバス通りと合し、片側町の商家が、帯のように続く。相住町は山と河に挟まれて、非常に長い町らしい。やがて町外れになつて、河幅も次第に広くなつた。頂上まで耕された両岸の山々か連なり、遠い河下らしい方角に、また青螺のような山影が、蓋をしている。どこまで行ったら、海があるのやら。
 私は、歩き疲れて、通りがかりの老人に、海がどこにあるか、きいてみた。
「へっへ、ここが海ですらい」
「えッ? では、あの遠い山は?」
「あれは九州ですぞなし」
 こんな細長い入海を、私は見たことがない。山の屏風に囲われて、水平線のない、瓢箪池のような海である。しかし、海といわれると、幽かに潮の香がしないでもない。

獅子文六『てんやわんや』より

 岩松の町は、岩松川の両側に分かれる。バスターミナルや町役場は川の西側、旧市街は東側にある。『てんやわんや』の玉松家は、町の豪商・小西家がモデルとされており、その一部は現在も大畑旅館になっている。したがって、犬丸は川の東側を海の方に向かっていったことになり、私も犬丸が歩いた跡を辿っていることになる。
 現在のバスは川の西側の国道56号を通っている。地図で見ると、かつて宇和島から松尾峠を越えて岩松に至る道は、川の東側(=旧市街側)に下りてきたようだ。小説中の文章によるならば、そう広いとは思えない川沿いの道を走っていたのものと思われる。

 私も犬丸順吉の足跡を辿って、海へ、九州が見える場所まで行ってみようと思う。やがて国道56号を越え、さらに岩松川の支流を越える。川沿いの道を歩く。やがて川幅が広がるが、海なのか、山なのか、わからない。

岩松川(河口付近) 「うなぎ採取禁止」の標識


 川のと中には「うなぎ採取禁止」の看板も見える。岩松は大うなぎの産地として有名であり、『てんやわんや』の登場人物・田鍋拙雲はうなぎ採りの名人である。

「田鍋君、近頃、鰻の方は、どがいぞね」
と勘左衛門氏が、彼に話しかけた。
 田鍋は、この町切っての鰻釣りの名人で、相生川のどんな支流、どんな石蔭に、鰻の穴があるか、悉く諳んじて余さぬのみならず、どんな狡猾な鰻も、彼の手にかかると、ミミズの如くたわいなくなってしまうそうである。それは、神技というべきだそうだが、鰻穴の所在も、道具の仕掛けも、彼は親友にすら断じて明さない。その代り、彼は鰻以外の川魚にも、海魚にも、決して眼を呉れない。鰻も、大鰻には、絶対に手を出さない。――そんなことを、勘左衛門氏が語った。しかし、彼の職業については、一言も触れなかった。
「大鰻といえば、昨今、サッパリ漁れんようじやが、おることはおるのやろね」
 背広を着た甥が、田鍋に話しかけた。
「おりますらい」
「わしが、此間、上の堰で見たのは、四尺五寸はありましたかい」
「ほたら、一昨年の夏漁れたほど大きゅうはないの」
「それでも、胴回り、一升瓶より細いことは、ありませなんだ」
何の話やら――私は彼等が今度は法螺吹き競争を始めたのかと思って、噴笑した。しかし人々の説明によると、この相生川は日本で三ヵ所とかの巨大なな鰻の栖息地で、現に、その標本が、小学校の理科室に、アルコール漬けになってるという。
「あれを捕えるときには、大の男一人を、鰻が投げ飛ばしよったけんな」
 そう言われても、私はちょっと信用できなかった。

獅子文六『てんやわんや』より

 やがて道は上り坂になる。リアス式の海岸線のような地形に変化してきている。坂道を上りながら、ふと下を見ると、水面に波のようなものが見える。どうも、海まで出てきているようだが、小説の通り、川と海の境目がよくわからない。
 やがて、坂を登りきると、海岸線の向こうに宇和海が見え、その向こう側に遥か山並みが見える。九州だろうか? ここで引きかえしても良いが、もう少しはっきりと見えるところまで行きたいと、欲が出る。(後から考えればここで引き返せばよかった)

北灘湾、向こうに見えるは九州? 津島町MAP(岩松川〜北灘湾)

 坂道を降りると、集落が見える。漁業の町といった感じで、完全に海辺の町の雰囲気がする。その先まで行くと九州が見えるか、と思いきや、さらに入江のような海岸線が続く。ここまで本当に引き返そうと思ったが、良く見ると、入江の奥には集落があり、その先は外海に面した海岸になっているようだ。
 そこまで進む。内海には海に浮いた作業場のような建物が連なっている。行ってみると、防波堤の向こう側に宇和海が広がっていた。内海よりも水は美しいようだ。九州は、あまり良く見えなかった。犬丸も、獅子文六も、さすがにここまでは来なかったとは思うが、行ける所まで行ったという満足感はある。

海上の作業場(北灘湾) 宇和海

7.文豪と菓子

 疲れきっているが、岩松まで歩いて戻る。バスもあるようだが、次の便まで1時間以上もある。元来た道を通って岩松の町並みへ入る。今度は町並みの北側を歩いてみる。このあたりには獅子文六の名を冠した「大野文六堂」という和菓子屋と獅子文六が書斎代わりに使っていたという大畑旅館がある。
 町並みは、南側と同じく新旧入り混じったような感じだが、やがてなんとなく昔の雰囲気を残した一画が見える。その中心にはかなり目立つ看板の店がある。「大野文六堂」だ。店には西日がさしており、日よけのカーテンが付けられている。それをめくって二人の観光客らしき男性が入っていくのが見えるが、私は町並みを一回りしてから購入することにして、さらに進む。
 古い建物が並ぶ。その一画には見事にレトロな雰囲気を残した小さな床屋さんがある。木造の古い建物の一角に座し、そのまま映画のロケにでも使えそうな雰囲気だ。その近くにはお寺に入ってみる。やや小さな造りながらも、凝った山門が印象的だった。

岩松のお寺 お寺の山門

 後は、大畑旅館を見てみたい。そのまま商店街の道を進むが、やがて途切れて岩松川沿いの道に出る。さらに戻ってみるが、それらしき建物はない。そこで、川沿いの道に出てみると、川に面して「大畑旅館」の看板が見える。入口は新しい建物だが、その横には古い建物が残されている。ここが獅子文六が滞在したという部屋だろうか?
 大畑旅館は、豪商・小西家の屋敷跡であり、したがって犬丸が居候していた玉松本家のモデルともいえる。かつては現在の敷地の数倍の面積を持ち、さらに分家も周囲にあったようだ。

大畑旅館(岩松川に面している) 岩松の町並(大野文六堂近辺)

 まったく、田舎のカネモチというものは 捉えにくい生態を持ってる。
 私は、川田番頭に案内されて、邸の内外を一巡した時に、いかなる意図によって、この邸宅が設計されたか、了解に苦しんでしまった。
 バス通りの入口は、紛れもない表玄関なのであるが、まことに貧弱な、汚らしい構えである。そして、台所を通過して、邸内の奥に入ると、客人部屋はいうに及ばず、宏大な住宅が、各所に建っている。庭も、三ヵ所ぐらい、入念な泉石の布置をもったものがある。驚いたのは、裏門である。淙々たる相生川の河岸に面し、数株の老松を前景に、何万石の大名の居城といっていい規模と外観の中央に、厳めしい金具を打ちつけた大名門が、裏門なのであ
る。表入口の百倍も立派で、威風堂々たる裏門なのである。
 裏門は裏通りへの出口で、一向、重要ではないのに、何の目的で、こんなものを建てたのであろうか。門の両側は、宛然、城の本丸というべき石垣と土壁なのであるが、その内部は、以前、酒や醤油の醸造に充てられたのだという。酒蔵や醤油蔵の建築が、なぜ、そんな威容を必要とするか。
「これで、もう、三百年ほど昔の普請じやといいまずけんな、ご先祖はんは、どがいなご料簡やつたか、よう知れませんぞなし」

獅子文六『てんやわんや』より

 商店街の方へ戻り、大野文六堂へ。岩松で獅子文六にちなんだ菓子といえば、『てんやわんや』の登場人物の名を冠した、浜田三島堂の「善助餅」が有名で、このお菓子は宇和島や松山駅、松山空港でも購入することができる。一方、大野文六堂の「文六」餅は、文豪の名を冠した菓子だが、こちらはおそらくこの店でしか買うことができないだろう。毒舌で知られた文六が、「名物にしてはうまい」と、評したという。

 そのせいか文六氏しきりに、終戦直後疎開し「てんやわんや」の舞台になった四国を思い起こしていた。文六氏の話によると。
 宇和島近辺には「文豪獅子文六」が疎開したことを記念して「文六餅」という餅があるそうである。つまり名物文六餅というわけだが作家の名前をそのままつけた名物は珍しいと夢声老や重雄画伯も感心していたが、それよりも感心させられるのは、文六氏自身の弁によれば名物に珍しくうまいのだそうである。

「名物にうまい物あり”文六餅”」大野文六堂の栞より
(サンデー毎日より引用されている)

 獅子文六は著作権に関してはうるさかったというが、このような逸話からも、彼がいかに岩松の町を愛し、岩松の事物に好意的だったかがわかる。
 店の表には獅子文六のエッセイなどを書いた大きな看板が並んでいる。その一枚には、獅子文六が”小説とは嘘を書くものであって、実在のモデルはいない”という内容が書かれている。ということは、『てんやわんや』の登場人物・越智善助などもまったくの架空の人物なのだろうか?
 店に入る。奥行きが深い、典型的な商家の建物のようだ。店の中にも獅子文六や岩松の町、大野文六堂に関する新聞の切り抜きが所狭しと並べられている。
 さて、店の奥の方を見ると、”奥におります。お声をかけてください”との表示が出ている。そこで、「ごめんください」と声をかけると、ご主人が出てくる。
「文六餅をください」というと、「いくつですか?」との答え。私たちはお菓子は箱詰めの規格化されたものだというが、ここでは客の希望にあわせてくれるらしい。本来、お菓子の売り方とはこんな感じだったのかも知れない。
 とは言うものの、こちらは一瞬戸惑い、「大体何個ぐらいで売られるんですか?」と聞いてしまった。ご主人は「十個でも二十個でも……」と答えられる。本当に素朴な感じのご主人だ。それで、「20個入りを下さい」と言うと、箱に詰め始められる。
 箱を受取るが、さらに店に飾られた新聞の切抜きを読みたくて、しばらく拝見させていただく。その後、ご主人に「ありがとうございました」と声をかけると、奥の方から伊予弁独特ののんびりした感じで「ありがとう〜」という声が返ってきた。

大野文六堂 名物にうまい物あり”文六餅”

 店の中で見た新聞の切り抜きの中には、この町について書かれたものもあった。
 かつて、岩松は松尾峠に隔てられて宇和島からは遠く、江戸時代・宇和島藩時代にも、半独立的な町だった。そして近隣の物資の集散地、内海航路の寄港地だった。この地理的有利さを背景に岩町の町は栄えたのだった。『大番』を読むと、かつては芝居小屋などもあったらしい。
 しかし、物資の輸送が次第に陸上交通に移り、戦後松尾トンネルが開通すると町は一変したらしい。宇和島との間がわずか30分で結ばれ、人々は簡単に宇和島へ出て行けるようになった。そのことは岩松の街の衰退につながる。
 岩松町は、周囲の町や村を合併して津島町になり、行政的にはその中心地になった。だがかつての物資の集散地の役割もなくなり、港も殆ど失われ旧市街は衰退する。今、岩松の町には映画館もレコード屋もないという。若い人間を惹きつけるものがない、ということなのだろう。
 交通の至便化は、住んでいる人には大きな利便性をもたらす。だが、そのことによって町が衰退し、本来持っていた町の雰囲気や文化が失われて行くのも事実だろう。
 岩松は昭和20〜30年代を風靡した獅子文六が格別の愛情を示した町だ。今でも町の紹介には「『てんやわんや』の……」という枕詞がつく。だが、文豪が世を去って30年以上も経っている。私の世代(1960年代生まれ)でも文六を知っている人は少ないだろう。
 岩松川は美しい。川と町並みが自然に溶け込み、東北の盛岡をさらに牧歌的にしたような趣がある。歴史のある町がこれからどうなるのか……。

 獅子文六は過去の人になった感もあるが、『てんやわんや』、『大番』などは文章も平明で、適度なユーモアも漂い、読み始めるとやめられなくなってくる面白さがある。小説自体は決して時代遅れな代物ではない。戦後から昭和30年代までの世相、時代の雰囲気を理解できるという点でも資料的な価値があると思う。その時代の雰囲気が現代に生きる私達には逆に新鮮に感じられる。

 さて、バスターミナルの方に戻る。最後は浜田三島堂に向かう。小説中、越智善助が30個たいらげた餅というのは、ここの「善助餅」をモデルにしているらしい。

「なア、あんた、どがいですぞ、この饅頭――わしが、宇和島から買うてきたのですが、これを、一ッ時に、三十食えるか、食えんかちゅう問題……」
勘左衛門氏は、小粒な眼を輝かしながら、いかにも重大事件のように、私を顧みる。
火鉢の側に、会津塗らしい人きな菓子鉢に、五十個はあると思われる、雪のような、フックりした鰻頭が、山形に盛つてあった それを見た途端に 私は奇蹟に接した想いで、心中、感嘆の声を揚げた。なんと、久しい対面であるぞ! 鰻頭というものが、この世にあることを忘れてから、何年になるであろう。戦争が、私たちから奪つたもののうちで、鰻頭と羊羹ほど痛惜されたものはなかった。羊羹だけは、情報局勤務中、缶入りのを、ワイ口に貰ったことがあったが、このふくよかな饅頭だけは、まったく口にしたことがなかった。あの、物の出回った新橋のヤミ市にも、鰻頭だけは、姿を見せていなかったのである。
 ああ、それが、今、山と積まれて―――
「東京の人は、お上品じやけん、そがいなこともあるまいが、わしらは、小麦饅頭やったら、十や十五は、誰でも食いますらい。しやが、二十から先きは、ちいと骨が折れる。二十五が、関所かいの。のう、旦那はん?」
と、坊主頭で、ロイド眼鏡の男が、勘左衛門氏に話しかけた。

獅子文六『てんやわんや』より

「善助餅」は松山でも、空港でも買うことができるが、せっかく岩松に来たのだから本店で買いたい。小さな店に入ると丸顔の、にこにこした、ご主人らしき人が出てくる。店では冷やした缶コーヒーなども売っており、椅子もおいてある。「善助餅」は各地に販路を広げているが、町の素朴な和菓子屋さんといった雰囲気がただよう。20個入りを購入してバスターミナルへ向かう。

岩松川と町並 津島町(岩松)市街図

8.「かんまんですか」

 待つこと15分ほどで、宿毛行きのバスがくる。バスの入口で年配の男性の方と一緒になる。バスは高校生で混雑して立っている人も多い。年配の方は空いている席を見つけて座られるが、そのとき横に座っている人に一声かけられた。
「かんまんですか(=隣に座ってかまわないですか)」と……この方言は『てんやわんや』で玉松勘左衛門が犬丸順吉に話しかける場面で出てくる。座敷に入るのに躊躇した犬丸に対して勘左衛門が「かんまん、かんまん」と言っていた。
 年配の方は、小説が発表された当時、まだ子供だったことだろう。岩松を離れるその瞬間に、『てんやわんや』の世界の雰囲気に触れたような気がした。

 バスは海岸線の美しい風景の中を走り、40分程で御荘の町に入る。八幡野(やたの)というバス停で下車する。少し道に迷ったが、無事ホテルに到着。シャワーを浴びて、ホテルのレストランで食事を取る。
 気がついてみると、随分日に焼けている。9月に四国にきて焼けるとは思わなかった……。

 

旅日記・目次へ 旅日記 てんやわんや・坂の上の雲    

[PR]「恋愛」目的の無料コミュなら:退会自由のHappyRingで♪18禁